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文京区,本郷,内科,循環器内科,小児科,高血圧,心臓病,生活習慣病【タツノ内科・循環器科】

榊原西遊記

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榊原西遊記

始めに

この話は、私が榊原記念病院で心臓外科医として歩んだ、20年間の経験の一部をスケッチ風に記したものである。中身はすべて私自身が実際に見聞きし、また行ってきたことであるが、多少我田引水的な表現があるかもしれない。また登場人物は話の進行上、止むを得ず実名を使わせていただいたところがある。記述には十分配慮したが、好ましくない表現があればご指摘いただきたい。

私はこの40年余、榊原仟先生の心臓外科学を学び、実践してきた。最初の10年間は、東京女子医科大学日本心臓血圧研究所榊原外科(心研)で研修と研究そして臨床を教わった。次の20年間は榊原記念病院で手術を中心に、まさに八面六臂の働きをした。続く10年は千葉県循環器病センターのセンター長として、榊原先生の教えを広めることに努めた。そして現在、最後の何年かを自らの医院を立ち上げ、一所懸命に力を注いでいる。

1. 東京女子医大時代

2009年3月9日月曜日

1. 東京女子医大時代

東京女子医大時代は、心臓血管外科医としての基礎作りの段階であった。約10年間のうち、3つの病院に出張していた2年数カ月間を除いて、心研では理論外科に4ヶ月間、ICUに2年間、心臓カテーテル室にやはり2年間在籍し、外科の臨床班にも2年程度所属していた。心臓血管外科の周辺を多く廻っていた私であるが、心研の標本室では、今野草二先生の指示で心臓標本を多数見るチャンスを与えられ、研究部の実験室では、研究班長の今村栄三郎先生の下で動物実験を10年近く続けた。
心臓カテーテル室では約2年間、4,000例以上のカテーテル検査に付き合い、最後はカテーテル先端が接触する感覚で、心臓内を立体的にイメージできるようになった。さらに榊原教授に命じられ、内科の先生方とともに倉庫からあふれた2万部を超える心臓血管造影写真を整理しながら、各疾患の造影診断を徹底的に勉強した。
ICUでは心臓手術の術後管理を一手に引き受けた。これによって術後の全身管理、とりわけ血行動態や呼吸管理、水分や電解質の保ち方などの基本を体に叩き込んだ。そして暇さえあれば大学図書館に通って文献を漁り、仲間とともにそれらを読んだ。
そんなわけで、東京女子医大時代、臨床班で私自身が手掛けた心臓手術はわずか数十例に過ぎなかった。だがその代りに心臓の解剖や造影診断、それに血行動態を中心とした術後管理、人工心肺の操作など、心臓外科の周辺知識や技術は相当詳しくなった。また数多くの動物実験を通して心臓外科の基本技術も習得した。今野草二、今村栄三郎の両先生の指導で論文や学会発表の原稿の書き方をじっくり学び、研究心を持った臨床医に育てていただいた。何より幸運だったことは、榊原仟教授という類まれな指導者に出会えたことである。これがその後の私の心臓血管外科医としての人生に決定的な影響を与えた。

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2. 榊原記念病院時代

2009年4月13日月曜日

2. 榊原記念病院時代

1977年8月1日から始まった榊原記念病院での20年間の生活は、私の人生におけるまさにハイライトであった。私自身まるで孫悟空にでもなったような気持ちで、時には如意棒を振るい、時には金遁雲に乗って日本中、世界中を飛び回った。
私たちのチームは20年間で7,000人を超える心臓手術をした。小児外科班の菊池利夫、高橋幸宏の両医師(どちらが猪八戒か、沙悟浄か知らないが)は、私のかけがえのない片腕であり、成人外科班の川瀬光彦、榊原高之の両副院長と各部長、医長をはじめ数多くのレジデントたちは、外科チームの強力な推進者であった。榊原高之先生は残念ながら、志半ばで亡くなられたが、残された外科医たちはその穴を埋めるべく、懸命に努力し、榊原記念病院の今日の隆盛の礎を築いた。

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2.1. 榊原記念病院に勤める

2009年5月18日月曜日

2.1. 榊原記念病院に勤める

1976年5月、私の直属の上司で天才的な心臓外科医であった、東京女子医大心臓血圧研究所外科主任教授の今野草二先生が亡くなられた。翌年の1977年の初め、私は榊原仟先生の部屋に呼ばれた。そして先生はかねてより計画中であった榊原記念病院に来るようにと仰った。
7月末、私は心研外科での仕事をすべて整理して、東京女子医大を退職した。そして8月1日から財団法人日本心臓血圧研究振興会の主任研究員、同付属榊原記念病院の外科部長になった。
当時、榊原記念病院は、新宿駅南口から歩いて4、5分ほどの渋谷区代々木2丁目に建築中であった。設立準備室は東京女子医大心研研究部の2階、榊原先生の部屋の奥にある通称『瞑想室』と呼ばれている部屋に置かれていた。準備室には榊原先生を初めとして、小船井良夫副院長、外科、内科、小児科6人の医師と、江村ツキイ総婦長(現在の看護部長)と3人の婦長(師長)たち、薬局長、検査科長、放射線科長、管理栄養士、それに事務の監理部長と管理スタッフ、振興会の伊藤友緒事務局長らが集まって毎日、新しい病院の構想を練っていた。
建物管理の安井節夫さんから、既に基礎工事は終わっているから一度建築現場を見てくださいといわれて、私は8月初め代々木の現場に行った。新宿駅近くの三百坪ほどの敷地に、3階くらいまで立ち上がった病院があった。建物の周辺は、飲み屋がひしめき、すぐ裏は鉄道中央病院の古い木造の看護宿舎が建っていた。正直いって当時のその辺りはあまり環境の良いところとはいえなかった。
ヘルメットをかぶって中に入ると建築資材が所狭しと置かれていた。3階の手術室は今まさに配管工事が進行している最中であった。私は安井さんに、とにかく手術室に圧搾空気の配管だけはしてくださいと頼んだ。
女子医大の準備室に戻ると、瞑想室ではカルテをどのような形にするかといった話しをしていた。医師のカルテと看護婦さんの記録をどうするか、医師の指示簿とカーデックスを別に作るのは無駄ではないか。どうしたら機能的な新しいカルテができるか。そんなことを榊原先生を中心に皆で熱心に話し合っていた。そこには新しい構想の病院を創ろうという新鮮な息吹が溢れていた。

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2.2. 丸J企業プロジェクトチーム

2009年6月15日月曜日

2.2. 丸J企業プロジェクトチーム

8月の中ごろ、準備室に新しい協力者がやってきた。榊原先生が本田技研の副社長に頼んで、同社の丸J企業プロジェクトチームから、精鋭を応援に派遣してもらったのだ。丸J企業プロジェクトは、本田技研における効率よい社内運営を考える部門である。そこでのノウハウが新病院全体のシステム作りに役立つと榊原先生は考え、招いたのである。
丸Jチームの針谷さんたちが参加するようになってから、準備室の仕事の進行は俄然速度を増した。中でも、病院が開院後に各階のナースステーションにあって患者管理に中心的役割を果たした「管理ボックス」は、丸Jの力がいかんなく発揮されて作られたものである。管理ボックスは病歴とオーダーそれに処置や処方、検査などの進行状況が患者一人ひとりについて、一目瞭然に分かるようになった全く新しい管理システムである。コンピューターがまだ十分に発達していなかった1977年当時としては、アナログ的発想における効率の極地といってよい画期的な発明であった。
管理ボックスはそもそも榊原院長が発案したものである。初めは印鑑売りのくるくる回る6面体のスタンドのようなものをイメージしていた。しかし討論を重ねていくうちに、長四角なアクリル製のものに落ち着いた。伝票を水平に入れるか斜めに入れるかで榊原院長とご子息の榊原高之医師とが激論を交わしたこともあった。そして最後に管理ボックスを夜間、オープンカウンターの前からナースステーション内に移動させる方法について、意見が続出してまとまらなくなった。ある人はケーブルカーのように天井から吊り下げるといい、別の人は床にレールを敷いて引っ張るといった。次々とアイディアが出てどの方式にするかなかなか決まらず、結局最後は、針谷さんに任せることになった。そして実際に作ってみると、ボックスの下にキャスターをつけただけで看護師が一人で軽く移動できることが分かった。
管理ボックスが決まるとカルテや伝票の形式が瞬く間に決定した。出来上がったカルテには3つの特色があった。一つ目は医師記録、指示簿、看護記録それにカーデックスなどをまとめて一つにしたことである。二つ目はカルテを2つに分けて、患者さんの新しい情報とそれより前の情報を別にしたことである。そして三番目は伝票類をすべて管理ボックスに合わせて同じ大きさの裏カーボン用紙にしたことである。医師がカルテに伝票を載せて書けば、カーボンによってカルテに記載が残り、その伝票が看護婦の作業箋や薬・物品の請求伝票になり管理ボックス内を流れて、最後は事務員が会計伝票を集めに回って来るという徹底的な省力化を図ったのである。
こうしたカルテ管理に関する効率化は、病院各部の機構にいろいろな影響を与えた。患者を診療するために医師、看護師、検査技師、薬剤師、栄養士、事務の間で緊密な連携が保ち易くなり、各部門の作業状況がオープンなため、常に他の部門からチェックを受けて、過ちを少なくすることが可能になるなど、ホンダの安全で効率の良い自動車作りのノウハウが見事に病院機能に生かされることになった。
病院開院直前の目もくらむ忙しさの中で、全く別の世界のシステムつくりの専門家と一緒に、新しい病院管理のあり方の一端を創造しえたことは極めて有意義なことであった。またこの丸J企業プロジェクトのメンバーの協力があったればこそ、榊原記念病院のユニークで効率的な体制が極めて短期間に完成したといえる。

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2.2. 榊原記念病院の開院

2009年7月20日月曜日

2.2. 榊原記念病院の開院

1977年9月の1ヶ月間は、何も考える暇がないくらい準備室の仕事が忙しかった。榊原父子は大層元気で、私どもと一緒に精力的に開設準備を進めていた。十月初めに建物が完成した。医療機械が搬入され始め、マニュアル作りとテスト・ランに追われた。月末にはそれと平行して救急患者の受け入れの予行演習を何度も行った。しかしどんなにテストを繰り返しても、実際に患者さんが入ってこなければ分からない面があった。
そうこうしているうちに10月26日から見学者の受け入れが始まり、11月2日までにその数が2,000人に達した。病院の披露会には政界、財界のお偉方、東京女子医大の吉岡博人理事長をはじめ全国の大学関係者、医師会・学会の先生方、患者さんとその家族、近隣の住人の方々、そしてマスコミ関係者など、大勢の見学者が押し寄せた。
11月4日、病院が開院した。そのときの医師の陣容は、内科が松田三和、中村憲司、鈴木伸の3人、外科が川瀬光彦、榊原高之、東島功、そして私の4人、小児科が三森重和、森克彦の2人、それに小船井良夫副院長と榊原仟院長を加えて、総勢11人であった。
入院患者さんの第一号は、榊原先生が東京女子医大心研外科教授時代の教室員で開業されていた先生から紹介された、心筋梗塞の男性であった。開院したばかりで、すべての医師らがICUで構えて待っているところへ、朝9時ごろ電話があり、間もなく救急車で患者さんが担ぎこまれた。全員で手分けして心電図、動脈圧、その他のモニターをほとんど数分以内につけて、治療が開始された。その患者さんは後日、元気に退院した。
11月7日、心臓カテーテル検査が始まった。最初の患者さんは私がカテーテル検査を受け持った。患者さんは30歳の心室中隔欠損の女性だった。レントゲン装置がうまく動かず苦労したが、何とか無事に終わることができた。数日後別の患者さんに冠状動脈造影をすることになった。当時私以外に誰も冠状動脈造影を経験したことはなかったので、榊原記念病院の最初の冠動脈造影を私がやることになった。その例を含めて私自身が冠動脈造影をやったのは2,3例だけで、それ以後は鈴木先生がすべて行なうようになった。
心臓手術の第一例は11月17日に行われた。患者さんは男の子で、動脈管開存症であった。私たち一同は、最初の手術だけは榊原仟先生にやっていただこうと話していた。しかしそのことをお話しすると先生は、「川瀬君が一番歳上だから、あなたがやりなさい」といった。そこで川瀬先生が執刀し、私が第一助手をやり、麻酔は東京女子医大麻酔科の古屋教授にお願いして手術が行われた。その後は第2例目を私が、第3例目を榊原高之先生が執刀した。私が手術した第2例目は3歳の心室中隔欠損の女の子で、欠損孔をパッチで閉鎖して3週間後に無事退院した。このようにして榊原記念病院の手術は始まったわけだが、1977年は年末までの約1ヵ月半の間に、28例の手術が行なわれた。

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2.3. 日の出

2009年8月17日月曜日

2.3. 日の出

1978年の年明けとともに榊原記念病院には全国から患者さんが訪ねてきた。榊原院長がテレビで講演をするたびに患者が増えていった。院長は私たちに1週間に8例手術をしなさいといった。初めは、4人の外科医と2つの手術室、常勤の麻酔医がいない状態では、とてもそんなにはできないと思っていたが、数ヵ月後には、あるいは近いうちにそうなるかも知れないと思うようになった。
3人の外科部長の役割分担は、川瀬先生が入院病棟全体を、榊原高之先生が手術室を、そして私がICUを受け持った。もともと3人の専門は、川瀬先生が弁膜症、高之先生が冠動脈と大動脈疾患、そして私が先天性心疾患であった。だが当時は先天性心疾患の手術例がほとんどだったので、しばらくの間3人が順番で手術をすることにした。そのため私は自分の手術以外に、2人の術者の第一助手を勤めなければならず、殆んど毎回手術室に入ることになった。
麻酔は東京女子医大から古屋先生、岩淵汲先生、大江先生、川上先生、高田先生などが交代できてくれた。しかしすぐにそれでは間に合わなくなり、他の人達にも麻酔を手伝ってもらうことになった。人工心肺は初めは私たち3人が交代で担当していたが、直ぐに坂爪技師長が技術を習得したので、彼との指導で検査科の技士たちが助手を務められるようになった。
看護は江村看護部長のもとに、山崎師長が小児病棟、坂根師長が成人病棟、後藤師長が手術室・ICUを担当した。後藤師長は若い看護師や看護助手を指導し、また中央材料室の管理を一手に引き受けて、われわれ外科医のわがままな注文に笑顔で応えてくれた。
手術数は月を追うごとに増加していき、やがて4人の外科医では到底間に合わなくなり、東京医科大学から工藤先生、東京女子医大心研外科から西谷先生が週に1回、応援に駆けつけてくれた。
私たちは若手の常勤の外科医が欲しいと榊原院長に要求した。院長は古巣の東京女子医大心研から外科医を派遣してもらうため交渉に行ったが、主任教授が交代したばかりで今は送れないとのことであった。そこで院長は自分の愛弟子である北里大学胸部外科の石原教授に電話した。そして翌年1978年の4月に万納寺医師が最初の大学派遣医としてやってきた。
同じ頃、麻酔の高田先生が一人の若者を手術室に連れてきた。彼は日本医科大学胸部外科の小坂医師であった。私の手術をじっと見ていた彼は、手術後、是非ここに見学に来たいといった。それから1か月間彼は通い続け、やがて無給でもよいからずっと研修させて欲しいと言い出した。結局彼は、その後2年間、榊原記念病院で研修を続けた。
1978年は1年間で270例の手術を行った。手術数の増加に伴い、小坂医師のような外科研修希望者が少しずつ増えてきた。そして1979年5月に東京女子医大心研から筒井医師が派遣されてきた。同じ時に広島大学を卒業したばかりの井上医師が研修を希望してきた。また聖路加国際病院でレジデントを終えた葛西医師、そして関東逓信病院でレジデントをしていた岡村医師が3~6ヶ月間の短期研修にくることになった。そんなわけで外科の陣容も徐々に整ってきた。

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2.4. 榊原記念病院心臓病専門研修制度

2009年9月28日月曜日

2.4. 榊原記念病院心臓病専門研修制度

1978年12月4日、私たち一家は新宿区牛込から文京区春日に引っ越した。引越し祝いに榊原仟先生から8号ほどのシクラメンの油絵をいただいた。鉢に植えられたピンクのシクラメンが何気なく描かれているその絵は、新しいアパートの居間に飾られた。
1978年も榊原記念病院は初めから順調な滑り出しであった。この年から榊原高之先生がICUの主任になり、私が手術室の責任者になった。そのため私の仕事量はそれまでより倍増した。学会発表も少しずつ増えて、榊原記念病院の名が徐々に学会誌に載るようになった。
1978年のある日、私は朝の医局会議で、榊原記念病院に心臓病専門の研修医制度を作り、全国に公募したらどうだろうかと提案した。榊原院長は「それはいい、龍野君、すぐにその案を作りたまえ」と仰った。私は早速、榊原記念病院心臓病専門研修制度というパンフレットを作って院長のところに持っていった。院長はすぐにそれを全国の医科大学に郵送し、医学雑誌に募集広告を出すよう私に命じた。
しかし翌年1979年春の応募者は一人もいなかった。4月になってから広島大学を出たばかりの井上医師が心臓外科の研修を希望してやってきた。結局その井上医師と以前から手術を見学していた小坂医師を、榊原記念病院の心臓専門研修医の第一号にした。
この心臓病専門研修医制度はその後、次第に心臓病医療を専門にしたいという全国の若手医師の間に広まった。そして初めは心臓血管外科だけだった応募者が、循環器内科、循環器小児科にも広がり、10年後には各科とも試験で選抜するまでになった。

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2.5. 榊原仟先生の死

2009年10月19日月曜日

2.5. 榊原仟先生の死

1979年5月7日、朝の医局会はいつものように昨日の出来事と本日の行事の話ですぐに終わった。会議終了後、榊原院長がスタッフ医師全員を院長室に招き入れた。そのとき呼ばれたのは、小船井、三森、松田、田中(寿)、森、川瀬、榊原高之、それに私の8名であった。
その席で榊原院長は穏やかな顔をして次のように言った。「私には肺と肝臓にがんがある。この2週間くらい食欲が落ちて体重が急速に減った。階段の登りが息苦しくてできない、肝臓あたりを自分で触るとしこりが触れるようになってきた」。そういった内容を、微笑をたたえながらゆっくりと話された。院長はさらに続ける。「この病院を始めたときのメンバーには私のことを最初に知らせたい、皆で力を合わせてがんばって欲しい」。
これはいったい何なんだ、私は心の中で叫んだ。癌に侵された人がわれわれに「がんばるように」といっているのである。私は体中に電気が走って、毛穴の一つ一つがぶつぶつと粟立つのを覚えた。
「今、川瀬君に絵をあげようと思って描いている。間に合うようにしよう。今後のことは小船井君を中心にしてやってくれたまえ」。榊原院長はそういってこの短い会合を終わらせた。
私は今までこのような経験をしたことがなかった。自分の命が間もなく失われるかもしれないのに、こんなにも穏やかに、微笑をたたえながら人前で話すことができるなんて、私は夢でも見ているのだろうか、そう思いながら私は榊原先生の顔を凝視した。
東京女子医大教授であったころの榊原先生は多忙を極め、いつも風のように現れてはさっといかれてしまうので、私は先生の顔をゆっくり見たことがなかった。医局員の間では先生は前向きというより前のめりだといわれていた。噂ではその手術は目にも留まらぬ早業で、ファロー四徴症は10分で手術を終えてしまうとか。だから榊原記念病院に呼ばれるまで私は、榊原先生のことを猛烈なブルドーザーのような人と思っていた。しかし病院で間近にお話を聞かせていただくようになってからは、先生が行動面よりも精神面で大きな存在であると感じるようになった。先生は自分の持っているものを周囲の者に惜しみなく与えてくださる。先生の側に近づいただけで誰もが温かみを感じ、敬愛の念を持つ。特に先生の優しさ、思いやりの深さは、死の間際まで周囲の人に与え続けられており、私たちはこの1年9ヶ月余り、毎日その恩恵に浴していた。
1979年9月28日、榊原仟先生は東京女子医大心研で亡くなられた。10月13日の正午、榊原先生の葬儀が青山葬儀所で行われた。その日初めは天気がよかったが、告別式が始まるとにわかに黒雲が立ち込め、雨が降った。そういえば先生は有名な雨男だった。夏に軽井沢でゴルフを一緒にやったときも土砂降りの雨で、途中で止めざるを得ないことがあった。しかし告別式が終わると不思議に雨はやんで、雲の切れ間から一筋の日差しが射した。それを見て、私にはなんとなく先生が天国へ上って行ったように感じられた。
今野先生が亡くなり、そして今また榊原先生が亡くなられた。榊原先生は私たちに「もう自分でやってごらん」といっているようであった。

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2.6. 手術システムの改良

2009年11月16日月曜日

2.6. 手術システムの改良

榊原先生が亡くなられたあと小船井副院長が院長になり、私たちは再出発することになった。しかし病院の先行きを案じて職員が次々と辞めていった。江村看護部長がやめて、東京女子医大からずっと一緒に仕事をしてきた後藤師長も、家業を継ぐことになり退職した。看護部長には山崎師長がなり、院内は急に若返った。職員の動揺は大きかったが、私たちに落ち込んでいる暇はなかった。亡き院長の遺志に応えるため、残された者が一丸となってこの危機を乗り越えなければならなかった。
手術室の責任者として私は、手術成績の更なる向上と手術数の増加を呼びかけた。当時2つの手術場で年間290例の心臓血管手術を行なっていたが、これを一気に400例にしようといった。すでに北里大学、東京女子医科大学、日本医科大学の3大学から若手外科医が派遣されており、1年前に発足した心臓病専門研修医制度にも応募者が出始めていた。一日3例手術すれば、年間400例は十分達成できるはずだ。
しかしこうした私の意見に手術室の勤務者たちからすぐに反論が出た。看護師からは手術機械が足りないし、準備に時間がかかり過ぎて、2つの手術室で1日3例の手術など到底無理といわれた。人工心肺技士も反対であった。確かに独立して回せる人は坂爪技師長一人しかおらず、新たな技士の養成は急務であった。
彼らの話を聞いてすぐに分かったことは、私を含めて3人の術者のわがままが看護師たちの仕事を増やしているということであった。例えば私と川瀬先生は、患者の頭が手術室の奥になるように手術台を置いていたが、高之先生はそれと90度違った向きに置いていた。手術台の高さも川瀬先生は落差式人工心肺のため最高に上げていたが、他の2人はポンプ脱血のため全く上げないで手術をしていた。そのため看護師は毎日、手術台や麻酔器、周辺の器械の向きを変えたり、足台を置いたり、はずしたりしていた。
縫合糸は各術者が違った種類のものを使っていた。夥しい数の手術器械、特に精密なピンセットや持針器などが、誰々先生の何々器械と書いた袋に入れられて消毒されていた。手術のたびに彼女たちはそれらを一つずつ開いて準備をしていたのである。
そこで私は外科医のやり方を統一することにした。まず結紮用切り糸をポリエステルの“より糸”と太さの異なるポリプロピレンのモノフィラメント糸2本の3種類だけにした。糸はボビンに巻いて特製の金属ケースに入れ、端から出して、その都度適当な長さに切って使うことにした。針つき糸は特殊なもの以外はすべて共通にし、同じものを大量に使う場合は、予めある程度の本数をまとめてパッケージした。
手術器械は小児用、弁膜症用、冠動脈バイパス用の3種類の基本セットを作った。それらには各手術に必要な標準的機材が、包装を開けると使用順に出てくるように入れてあった。さらに特殊器械もできるだけそれに組み込み、追加する単包消毒物を少なくした。
当時、術野を覆う滅菌布は厚い丈夫な木綿を使っていた。術後、血液が付いた木綿布は、看護師らが長時間かけて洗い流しており、感染症患者の手術では、これにより職員が感染する危険性も大きかった。アメリカ製の使い捨ての不織布を一部で使用していたが、高価なため全面的な導入に踏み切れないでいた。ある日、日本の会社が、わが国独自の覆い布を作りたいといってきた。私は1年間試作品の供給を受ける代わりに、使いやすい新製品作りに協力することにした。これにより私たちは国内でも最も早く使い捨て滅菌覆い布の完全導入に踏み切ることができた。その効果は絶大で、看護師らの感染症の危険性が減って、時間と労力が大幅に軽減された。

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2.7. ヨーロッパの医療視察

2009年12月21日月曜日

2.7. ヨーロッパの医療視察

「誰か海外の医療視察に行く人はいませんか」。小船井院長のこの言葉に私は真っ先に手を挙げた。1980年最初の病院スタッフ会議のことである。その年の6月、第1回の小児心臓病学会がロンドンで開かれると聞いて、小児科の村上先生とこの学会にぜひ参加したいと話していたからである。
院長の許可を得た私たち二人は、早速ロンドンからスイス、パリそしてオランダ・アムステルダムを回る計画を立てた。特に、パリでは小児心臓病医療で有名なラエンネック病院を見学し、アムステルダムでは留学中の東京女子医大心研外科の黒澤先生を訪ねることにした。
第1回世界小児心臓病会議はロンドン郊外の会議場で行われた。世界各地から2000人余りの小児心臓病の専門家が集まった。小児心臓病に関する初めての世界会議のため、心臓病理学者たちが自分の理論をぶつけ合って、会議は初日から大荒れであった。先天性の心臓病の中に、心室が一つしかない単心室(Single ventricle)という病気がある。その名称を廻って、従来どおり“単心室”と呼ぶアメリカ学派と“単一心室心(Univentricular heart)”という新しい名称を提唱するヨーロッパ学派が激しく対立し、果てしない議論が続いた。たまりかねた小児科医のソマービル女史が、テーブルを叩いて “ One ventricle(1心室)”と叫んだのが印象的であった。
6月9日、私たちはパリに行きラエンネック病院を訪ねた。ラエンネック病院は、年間の心臓手術1200例のうち600例が小児手術という、フランスでも指折りの小児心臓病院であった。手術室は4つ、ICUは成人・子ども兼用ベッドが10、乳児用が5床であった。私たちはこの病院で手術に関する貴重な情報を得た。
この病院では、手術台の周りを透明な滅菌ビニールの衝立で完全に囲んでいた。外回りの看護師が手洗い看護師に物品を渡すときは、その一部をドアのように開けていた。人工心肺は術者の背中側にあって、回路は術者の後ろの衝立に吊るした袋から回路を取り出していた。この病院は数百年の歴史があり手術室も古かったが、内部にはこうしたさまざまな感染対策が施されていた。私はこれらのアイディアをできるだけ榊原記念病院に取り入れたいと思った。
11日の午後、パリを発ってアムステルダムに移動した。アムステルダム大学に留学中の黒沢先生は、3日間の滞在中私たちを最大限に歓待するつもりで待っていた。翌日、ライデン大学で行われたビールハーヴ心臓卒業セミナーに参加した。心臓発生解剖学に関するそのセミナーは大変高級な内容であった。R.H.アンダーソン教授の講義は、先日のロンドンの会議のあとだけに、心臓病理に関するヨーロッパ学派の理論的な考え方が新鮮で、長旅の疲れも忘れて聞き入った。
2日目、黒澤先生は私たちをオランダの幾つかの名所に案内してくれた。デンハーヴの王立美術館でレンブラントの「トゥルプ教授の解剖」の絵などを見た。風車の家に入り、マドローダムのミニチュア都市を眺め、ラッターマンの木靴工場で製造過程を見学した。最後に宝石で有名なシュテルンの店に行き、ダイヤモンドの研磨工程を見学、等級の付け方を教わった。ダイヤモンドはカット、透明度、色合いなどで等級が付けられ、ブリリアントカットで透明度の高いブルーホワイトのものが最高級といわれた。勧められて私もゴマ粒ほどのダイヤモンドを1つ買ったが、それには立派な鑑定書がついていた。それを見て黒澤先生が「ダイヤモンドよりもこの鑑定書のほうに価値があるんだよね」と言った。
翌日午後、黒澤先生に連れられてベッカー教授の家を訪ねた。お宅は入り江の高い堤防のすぐ脇にあり、農家を改造した大きな屋敷であった。教授は真っ赤なフェアレディZを運転していた。パーティにはアンダーソン先生を初め数人の外国人が招待されていた。ゆっくりと歓談し、夕方9時前にホテルに帰った。
このアムステルダム滞在は、後々私に大きな意味を持つことになった。アンダーソン、ベッカーという二人の世界的な心臓病理学者と知り合いになったことで、後で私たちの仲間がロンドンに留学する際に助けていただいたし、後年、私自身がアムステルダムで辻斬り強盗にあったとき、ベッカー教授にお世話になるというおまけまでついたからである。

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2.8. 二度目のヨーロッパ医療視察

2010年1月18日月曜日

2.8. 二度目のヨーロッパ医療視察

1981年、私はこの年、世界心臓血管外科学会で発表をすることを目標にしていた。2年前に榊原先生に推薦していただいてこの学会の国際会員になっていたからである。学会は9月にギリシャのアテネであり、幸い演題も採用されたので、私は小児科の森先生と一緒に行くことにした。そして学会後に、以前からあこがれていたボルドー大学ピサク病院のフォンタン先生、そしてミュンヘン・ヘルツ・ツェントルムのゼヴェニング先生を訪ねることにした。
9月5日成田を発ち、翌日アテネに到着。10日、無事学会発表を終えた。すぐにアテネを発ってローマ、パリを経由して9月13日ボルドーに到着した。そして翌14日、ボルドー大学ピサク病院にフランシス・フォンタン教授を訪ねた。フォンタン先生は三尖弁閉鎖症に対する右心房-肺動脈バイパス術、通称「フォンタン手術」の創始者として、世界的に有名な心臓外科医であった。新築のピサク病院の手術室はまるで劇場のリハーサル室のように広く、中央に手術台がチョコンと置いてあった。壁の一面には森の絵が描かれていた。フォンタン先生の手術は見事であったが、手術室は立派過ぎて私たちが参考にできるようなものは何もなかった。
9月15日早朝ミュンヘンに行った。フランスに比べればどこでも英語はずっと通じたし、人々は親切であった。我々は早速、ミュンヘン・ヘルツ・ツェントルムを訪ねた。ここも手術室は2つだけで、年間600例以上の手術をしていた。どうしたらそんなに多くの手術をすることが可能なのか聞いたところ、ゼヴェニング教授は、毎日午前・午後1例ずつ手術をしていると事もなげにいった。1日4例、1週間で20例、年間30週で600例になる、まさに理屈どおりだ。
この手術室では患者の頭が入り口側にあった。患者を足から先に手術室に入れるとそのまま手術ができる。患者の頭が廊下側にあれば麻酔医が手術室からすぐに出て行けるので、他の手術室で麻酔に問題があったとき手助けしやすい。また出入りの多い麻酔医はできるだけ廊下側に居た方が手術室の清潔が保ちやすい。さらにこの病院では前に見たパリのラエンネック病院と同じように、麻酔のアーチを大変高くしていた。これは廊下側の埃が手術野に入らないための工夫と思われた。手術場の出入りもアメリカやイギリスなどと違い極めて厳密で、入るときにパンツ以外はすべて脱いで備え付けの術着、靴下、マスク、帽子をつけ、入り口で手を洗うようになっていた。
私は榊原記念病院の手術室のベッドの配置に困っていた。術者間で意見が異なり、毎日手術台の位置を変えていていた。ミュンヘン・ヘルツ・ツェントルムの手術室を見て、このアイディアをいただこうと私は決心した。
夕方、病院を辞して森先生と二人でミュンヘンの街中をぶらついた。清潔で美しい町を歩きながら、建物の壁に埋め込まれた大きな音楽時計から、音楽とともに天使や楽隊人形がくるくると踊りながら飛び出すのを眺めた。ビアホール・ホフブロイハウスでビールを飲み、大きなソーセージを頬張った。ミュンヘンはたった1日の滞在だったが、極めてよく考えられた手術室を見せてもらい、長年の懸案を解決する糸口を見つけることができた。ビールを飲みながら私は再度ヨーロッパに来てよかったと感じた。

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2.9. 手術室の改良工事

2010年2月15日月曜日

2.9. 手術室の改良工事

1981年の1年間の手術数が初めて300例を越えた。これはこの年から弁膜症は川瀬先生、虚血性心疾患と大血管疾患は榊原高之先生、そして先天性心疾患は私が主に手術をするようになったこととも影響している。手術数はその後も少しずつ増え続け、1985年には年間342例になった。私自身が担当する先天性心疾患もこの年200例を越えた。国立循環器病センターから来た菊池医師と大学からの派遣医、それに新たにチームに加わった心臓病専門研修医の高橋医師らとともに、ほとんど毎日のように手術をした。幸い手術成績は良好であり、その噂を聞いて全国から小児心臓病の子どもたちが紹介されてきた。
1985年1月にICUからCCUが独立し、榊原高之先生がその責任者になった。そしてICUの管理は私が行なうことになった。1986年、病院が開院して10年目を迎えた。開院以来、患者数は年々増加したが、院内の諸機能はほとんどそのままであった。手術室やICUの構造やシステムも高度化する医療に対応できなくなってきていた。そこで小船井院長と相談して、その年の9月に手術室とICUを改装することにした。
私は、手術室については以前ミュンヘンの心臓センターで見た患者の頭を廊下側にする構造をぜひ実現したいと思った。これによって長年の懸案であった手術ベッドの配置問題は解決されることになり、看護師の負担が減ると考えた。さらに暗いといつも不満を言われていた手術室の無影灯を外国製の明るいものに替え、同時にテレビ・ビデオ装置を設置して、手術中の状況を録画し、控え室でモニターとして見られるようにした。
ICUについては、それまでセントラル・モニターだけで監視、記録するシステムであったが、患者さんのベッド脇にも個別のモニターを設置し、そこでも記録ができるようにした。これによって看護師が患者さんの状態をすぐに把握ができるようになり、救急処置もし易くなった。また職員が複数の患者さんをケアする場合、細菌感染を媒介しないよう手洗いを励行することにした。そのために職員がいつでも簡単に手を洗えるよう、部屋の真ん中に手洗い場を新設した。
また工事によって1月近く手術室が閉鎖されるので、この機会に吸引器を2階建てにした新しい人工心肺装置の動物実験をしたり、若手の外科医を他の病院に派遣してシステムを見学させたりすることにした。小児グループの菊池スタッフ医師と若手の高橋医師には、当時乳児開心術で目覚しい実績を上げていた福岡市立こども病院に見学に行かせた。

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2.10. 手術数年間400例の達成

2010年3月15日月曜日

2.10. 手術数年間400例の達成

手術数年間400例を目指して、手術室の改良が続けられていたが、難関は手術台の位置と高さであった。術者間で何とか統一できないかと繰り返し話し合ったが、それぞれ自分のやり方が絶対に正しいといって譲らなかった。
1981年9月、小児科の森先生と一緒にドイツのミュンヘン心臓センターを見学したことはすでに話した。そこの手術室では患者が廊下側に頭を向けて寝ており、麻酔医は入り口近くにいて、いつでも廊下に出られるようになっていた。
榊原記念病院の手術場では麻酔用の配管が四方の壁にあって、麻酔ガスをどこからでも自由に引けるようになっていた。1986年手術室の改良工事を行った際に、私は麻酔ガスと電気配線、モニターなどを入り口近くの天井から吊りさげた。人工心肺も改良して脱血をすべてポンプで行なうようにした。これで手術台の位置や高さは固定され、術者たちの論争にも決着がついた。
1981年当時の手術室は、いろいろな器械の配線や配管がごちゃごちゃと床を這っていた。以前見学したパリ、ラエンネック病院の手術場では、電源はすべて手術台の下から引いていて、床に配管や配線などは何も這っていなかった。麻酔医と手術野を隔てるアーチは大変高く、手術機械を載せる台は横長でその後ろ側が衝立状に高くなっていた。手術をしている部分は、周りをすべて消毒された壁で取り囲まれ、外回り看護婦の出入り用に小さなトラップドアがひとつついているだけであった。私はこの方式をいただくことにした。
まず麻酔のアーチを高く、広くした。手術室の看護師の山田君が協力してくれた。彼は立派なアーチを作り、手術の器械台を今までより大きくして、患者の足の部分をすっぽり覆い、器械台の後ろには40センチほどの衝立を立てた。
電源は大容量のケーブルを1本手術台の下に引いて、人工心肺や麻酔用モニターなどの器械はすべてそこから電気を取ることにした。また電気ショックや電気メス、中枢・末梢温度計などの本体をひとまとめにして手術台の下に置いた。これによって手術室内の床を這っていたケーブルがなくなり、キャスター付きのワゴンがスムーズに移動できるようになった。
人工心肺技士の養成は困難を極めた。坂爪技師長のほかに数人が人工心肺の手伝いをしていた。しかし技士の卵たちは出入りが激しく、手術室に残ったのは曽根技士だけであった。ある冬、彼がスキーで足を骨折した。坂爪技師長と私が入院先の病院に見舞いに行った。しかし怪我はかなり重く、彼が現場への復帰するのは無理かもしれないと思った。ところが数ヵ月後病院に戻ってきた彼は、生まれ変わったように勉強し、瞬く間に一人前の臨床工学技士になった。彼の復帰後、若手の技士たちが次々に育っていった。
1981年5月に、国立循環器病センターから菊池医師がやってきた。遅れて日本医大胸部外科から維田医師も赴任した。これで万納寺医師を入れて3人の第2世代の心臓血管外科医が揃った。
このように長年にわたって問題を一つずつ解決していった結果、1981年当時は1週間に8例が限度であった手術数が、1986年には10例以上やっても手術室スタッフは何もいわなくなった。そして私が宣言してから約10年後の1991年、年間手術数が400例に達した。手術数はその後も急増し、1997年には700例を越えた。たった2つの手術室で欧米並の手術ができるようになったのである。

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3.1. 本の出版

2010年4月19日月曜日

3.1. 本の出版

忙しいときにはそれを倍加するように仕事が舞い込むものである。私は1985年、1990年と2冊の単行本を出版することになった。
1985年8月15日、小書「こどもの心臓病はもう恐くない」が自由現代社から出版された。小児科の森先生と小児病棟の坂根看護師長、それに私の三人の共著である。本書は榊原仟院長がまだお元気だった1978年秋ごろに、患者さんのご両親から自分たち向けの易しい解説書が欲しいという声を聞いて、出版を思い立った。そして翌年の春には原稿の大半ができあがり、院長から序文もいただいていた。しかしその年の9月に榊原先生が亡くなられ、私どもの仕事も繁忙を極めたため、本書の刊行は延び延びになった。5年後、病院内が次第に落ち着きを取り戻してきたので、埋もれていた原稿を引っぱり出し、古くなった内容を書き直して、やっと発刊にこぎつけたのである。
200ページ程度の小さな本で、内容は先天性心臓病を知らないご両親が読んでも理解できるように、できるだけ易しく書いた。挿図はすべて森先生と私が鉛筆書きして、画才のある医療秘書に清書してもらった。この本は幸い全国図書館協会の推薦書になり、多くの方々に読まれた。榊原記念病院に入院された患者さんのご両親からは、本書が絶版になった1994年以後も、どこかの本屋で見つけてきたといって、何度も私たちはサインを求められた。
もう一つは1990年5月に、医学書の出版社である南江堂から看護師さん向けに出された「心臓外科エキスパートナーシング」である。
1985年ごろ南江堂の出版企画部の女性担当者が、大学病院の教授から私を紹介されたといって、本書の計画書を携えてやってきた。当時の私は、手術室、ICUの責任者として殆んど毎日のように手術をし、術後管理をする一方で、学会発表や論文執筆、院内の研究ジャーナル誌の編纂、院内研究を振興のための研究費の調達と配分など、両腕に抱え切れないほどの仕事に追われていた。
そんな訳でその企画にあまり乗り気ではなかった。だが南江堂の担当者の熱意に、そのうちに時間ができたら榊原記念病院での経験をまとめてみようと答えた。しばらくして目次を作り、診断と内科治療の部分は内科医長の林先生に執筆を依頼し、看護ならびに検査部門については、現場の資料集めを山崎看護部長と坂爪検査科技師長にお願いした。林先生の原稿と現場からの資料は1年も経たないうちに私のところに届いた。
それから約3年たった。「心臓血管外科エキスパートナーシング」はまだ出来上がらなかった。その間に林先生は榊原記念病院を退職し、大阪に戻って行った。私自身は多忙なスケジュールの合間、主に夜遅く文献や現場の資料をもとに少しずつ原稿を書き進めていた。本の内容は全て榊原記念病院で実際に経験したことや自分で文献を調べたことにした。看護師さん向けの本だからといって、医学的内容について手を抜くことはしなかった。しかし分かり易くするために文章を極力少なくして、図と表を多用し、それらはすべて自分で手書きした。
そして1990年春、本書は出来上がった。薄青色にオレンジの幾何学模様が描かれた初版本の表紙を初めて見たときは、こんなに忙しい中で良くもここまで到達できたものだと、われながら感心した。
本書は図と表を主にした実践書であり、類書がなかったので看護師さんだけでなく若手のドクターにも読まれていたようであった。また小船井院長が初版本を全国の看護学校の図書室に寄贈してくれたので、看護学生にも知られるようになった。「心臓血管外科エキスパートナーシング」はその後、私が榊原記念病院にいる間に1回、千葉県循環器病センターに移った後にも1回改定し、20年後の今でも、第3版が医学書店に並んでいる。

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3.1. オランダでの出来事

2010年5月17日月曜日

3.1. オランダでの出来事

(1)アムステルダムの辻斬り強盗

世界心臓血管外科学会で発表するため、1991年8月29日、私は一人でヨーロッパに出かけた。ところがそこで私はとんでもないアクシデントに見舞われた。
旅の初めの目的地はロンドンだった。ロンドン郊外のヘアフィールド病院にマージ・ヤクーブ先生の手術を見に行った。
8月31日、私はロンドンを発ってアムステルダムに向かった。ここには10年前に留学中の黒澤博身先生を訪ねて一度来ていて、安全で一人歩きも危険がない町という印象があった。後で思えばこの度はまさに湾岸戦争の直後であり、町には戦火を逃れてきたアラブ人たちであふれていたのである。
午後1時に宿舎のアポロホテルに到着した。そこは運河の合流点であった。ホテルにチェックインしたあと一休みしてから、歩いて学会会場のRAIコンベンションセンターに登録に行った。登録を終えて学会用の大きなカバンの中に金やパスポートを入れ、私はもと来た道をホテルに向かって歩いていた。
午後の日差しは高く、まぶしかった。広い道の真ん中にはポプラやプラタナスの大きな並木が続いていた。道路には車や自転車がひっきりなしに通っていたが、歩行者はほとんどいなかった。周りには5,6階建ての、どれもこげ茶色した煉瓦作りのこぎれいなアパートが並んでいた。
私は開襟シャツ姿で学会かばんを提げて、通りの右側をゆっくりと歩いていた。アポロホテルの直ぐ裏の運河にかかった橋を渡ろうとしたとき、急に路地から一人のアラブ系のひげ面の男が近づいて私に何か話しかけてきた。何ごとかと思って男を見たとたん、彼は右手に持ったナイフを私に振り下ろした。とっさのことで避けることができず、私は左の肘を切られた。さらにかばんを胸の前に構えて攻撃を避けようとしたが、体をひねったときに右の背中を刺された。このままでは殺されると思って、かばんを放り投げてナイフを持った強盗の右手首に両手でむしゃぶりついた。そのままでしばらくもみ合っていたが、そのとき彼の左手が私のズボンの、右うしろのポケットに触り、財布を抜き取った。そして私の手を無理やり引き離して、ホテルと反対の方向に駆けていった。
大変なことになった、だが、命だけは助かった。そう思いながら私はしばらくぼんやりその場に立ち尽くした。気は確かだった。左肘と右の背中からひどく出血していたが、不思議と痛みは感じなかった。びりびりに裂けたシャツの一部をちぎって左肘に巻いた。背中はシャツの上から右腕で押さえた。シャツに血が滲んでいくのを感じた。しかしここはオランダだ、外国人同士の争いに近寄ってくる者は誰もいなかった。やがて私は道端に落ちていたかばんを拾って、よたよたとホテルまで歩いていった。

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3.2. オランダでの出来事

2010年6月21日月曜日

3.2. オランダでの出来事

(2)警察での鏡越しの対面

ホテルのマネージャーに、道で辻斬り強盗にあった、怪我をしていると告げた。直ぐに警察が来て簡単な尋問のあと、救急車で近くの救急病院に運ばれた。救急外来のベッドで寝かされた。若い医師が来て傷をチラッと見た。看護師に尿検査を指示し、注射を受けるか否か、予防接種をしているかどうかを私に訊ねた。注射は受けたくないと答えた。尿を取ってそのまま長時間、救急ベッドに寝かされたままになった。傷の手当は何もしてくれなかった。通りがかりの看護婦に今何をやっているのか聞いたところ、尿検査をやっているが、血液は混じっていないようだからもう帰ってよいといわれた。
肘の傷の出血は止まっていたが、背中の傷からはまだ血が出ていた。縫合してくれるよう頼んだが、こうしたナイフによる深い傷は、感染の恐れがあるので縫合しないとの返事が返ってきた。結局この救急病院には3時間ほどいたがなにもしてくれず、迎えに来たパトカーに乗って血の滲んだランニング姿のまま警察署に連れて行かれた。
警察で私は容疑者と鏡越しに対面させられた。男は私を襲った後、通りを走って逃げたが、自転車で通りかかった人達に取り押さえられて、警察に突き出されたとのことであった。
格闘していたときに私は相手をじっくり観察している余裕はなかった。アラブ系でひげ面のかなり体格のいい男で、確か灰色のジャンパーを着ていたように思っていた。しかし鏡越しに目の前に立っているアジズという名のモロッコ人の容疑者は、ひげ面ではあったが、見たところ案外おとなしそうな小男で、上には明るい青いジャンパーを着ていた。ズボンは灰色でスニーカーを履いていた。私のイメージでは犯人はもっと大きかったし、目が吊り上って恐ろしそうな顔をしていた。何よりも上着は灰色だった。
男が持っていたというナイフを見せてもらった。犯人はナイフで確かに私の体を数回刺した。そしてナイフがさらに私に振り下ろされようとしたとき、私は必至になってその右手首に両手でしがみついた。何とかナイフを離させようとその手を激しく揺すったりした。この間数秒だったと思うが、私はナイフをしっかり見ていた。それは少し装飾の施された刃渡り12〜13センチのものだった。警察の人が見せてくれたナイフは紛れもないそのときのものだった。私はこの男が犯人に違いないといった。
あとで分かったことであるが、アジズは警察につれてこられたときジャンパーを裏返しに着ていた。私が見たあと警察官が上着の裏側を確かめたところ、色は灰色だったとのことである。
そのあと私は若い警部から英語で調書を取られた。背中の傷からは相変わらず出血が続いていた。私はシャツが破れて脱ぎ捨てていたので、血の滲んだランニングシャツの上から、警察でもらったわら半紙で傷を押さえながら事情聴取に応じた。最後に警部が自分で書き上げた調書を読み上げて、これでいいかと私に尋ねた。もう夕方8時を回っていてひどく疲れており、早く帰りたかったので私は、すぐにサインをした。
調べが終わって外へでてみると、夏時間のため空はまだ明るかった。警部が車でホテルまで送ってくれた。

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3.3. オランダでの出来事

2010年7月19日月曜日

3.3. オランダでの出来事

(3)PTSD、収まらない恐怖心

ホテルではマネージャーが大丈夫だったかと声をかけてくれた。私は彼からホテルの救急箱を借り、たまたまロビーにいた日本人のドクターに肘と背中の傷を消毒してもらい、包帯でぐるぐる巻きにしてもらった。よく見ると両手にもあちこち小さな切り傷があった。念のため持参の抗生物質を少し多めに飲んだ。それでやっと落ち着いた。
手当てをしてくれたドクターに丁寧に礼を言って私は自室に戻った。血だらけの体を拭いて、新しい服に着替え、ホテルのレストランに食事に行った。腕と背中の傷が痛み、手がふるえて、ナイフが皿にガチガチとぶつかった。食事を早々に切り上げて、翌日発表があるので早めにベッドに入ったが、その夜はほとんど眠れなかった。
翌日、朝早く起きた。体全体が痛かった。特に背中の傷が疼いた。まだ少し出血もあったので、自分で包帯を交換して、朝食に降りて行った。昨夜と同じ受付の人が「大丈夫か」と声をかけてくれた。「何とか生きているよ」と答えて朝食をとった。8時少し前にホテルを出て学会場まで歩いて行った。昨日襲われた橋にさしかかると足がすくんで、恐怖が体を貫いた。たくさんの人が自転車で道を走っていたが、人が近づくと怖くて自然と逃げるように足早になった。昨日の事件前はあんなにのんびりそこを歩いていたのに、今日の私はすっかり怖気づいてしまっていた。
学会発表は午後2時からであった。座長はメルボルンのトム・カール博士とニューヨークのアマト博士であった。私の発表には座長から2つ、会場から1つ質問があった。どれもそれほど難しいものではなく、どうやら切り抜けた。
その日の夕方、ホテル・オークラで日本の製薬会社主催の研究会があった。傷は痛んだが出血が収まったので、私も出席した。そこでは私が辻斬り強盗にあった噂が既に広がっていた。特に関西の医師たちから、「龍野はん、強盗にあったんだってなあ。それは恐いわぁ。気いつけなあかん」などと言われたが、無事でよかったとか、大丈夫かといった言葉をかける人はいなかった。当夜のもっぱらの話題は、私以外にもカメラを盗まれたり、エレベーター内で現金やパスポートを強奪されたという内容ばかりであった。アムステルダムはもはや昔のアムステルダムではないようだ。
翌日、アムステルダム大学医学部解剖学教室のアントン・ベッカー教授を訪ねた。教授とは先天性心疾患の房室中隔欠損症について、房室弁の形態と腱索のつき方を解剖標本で調べる約束をしてあった。教授に強盗に傷を負わされたことを話すと、すぐに病院の外科外来に連れていかれ、そこで傷の手当てを受けさせられた。どうやら背中の傷も筋肉までで、出血は止まっており、感染も無く、このまま治癒する見込みであった。とにかくこの時初めて正式な治療を受けた。
9月8日、私はアムステルダムを発って、ロンドン経由で9月9日朝、日本に帰国した。
日本に帰ってからもしばらくの間、夜中にうなされて、妻に何回も揺り起こされた。そのころ日本でも上野界隈にはアラブ人がたくさん集まっていた。私はその群衆を見ただけで怖気づいて、上野周辺にいかないようにした。町を歩いていても向こうから中東系の人が近づいてくると、恐怖が体に走り、思わず脇道に逃げ込んだりした。こうした心理的な障害は半年以上続いた。
よくベトナム戦争帰りのアメリカ兵が、恐怖体験がいつまでも心に深い傷として残っているなどと言われたが、強盗に会って確かにそういうことはあるに違いないと思った。
帰国後数カ月たって、オランダから救急車の使用請求書と救急病院、それにアムステルダム大学医療センターの医療費支払い請求書が郵送されてきた。日本では救急車の利用は一銭もお金がかからないが、オランダでは救急搬送は民間会社がやっていて、利用者は料金を支払うことになっていた。救急車と大変親切にしてくれた大学病院からの請求書はともかく、何もしてくれなかった救急病院からも高額の請求書が届いたのにはびっくりした。これらはすべて旅行保険で支払ったが、私はいささか割り切れない気持ちがした。

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リフレッシュ休暇. ストーンヘンジとネス湖

2010年8月16日月曜日

リフレッシュ休暇. ストーンヘンジとネス湖

榊原記念病院が開院して15年たった1992年11月のある日、病院創設以来がんばって働いてきた人たちに、1ヵ月間の有給休暇と20万円のボーナスが出ることになった。小船井院長はこれをリフレッシュ休暇と呼んだ。
以前から私は、もし十分な時間があったら是非やってみたいと思っていたことがあった。それは大学3年の長男と二人で旅行することであった。私はこの休暇を利用してそれを実行することにした。
初めは九州一周自転車旅行でもと考えていたが、「おやじ一人で行けば」などといって、取り合ってくれなかった。そうこうしているうちに1993年9月、ポルトガルのリスボンで開かれる国際学会に私の演題が通った。私は長男に一緒に行かないかと話してみた。初めは渋っていたが、ヨーロッパのどこでも好きなところに連れて行ってやるという私の誘いに、やがて彼は一緒に行ってやってもよいなどと、恩着せがましく言うようになった。彼はストーンヘンジとネス湖を見たいといった。
1993年8月31日、私たちはKLMオランダ航空機で最初の目的地アムステルダムに向かった。アムステルダムに行くのは、心臓病理学者のアントン・ベッカー教授に会うためである。教授には、一昨年9月に強盗に襲われたとき怪我の治療に便宜を図っていただいたお礼を申し上げ、最近の私たちの臨床研究について報告するつもりだった。アムステルダム大学のオフィスを訪ねると、教授はあい変らず人なつこい笑顔で迎えてくれた。翌日、教授夫妻は私たち二人を夕食に招待してくれた。会話は大いに弾んで、心臓の解剖学の話から2年前の辻斬り強盗のこと、私の息子の将来の夢に至るまで、話題が尽きなかった。
9月3日、私たちはロンドンに移動した。翌朝、ストーンヘンジ・バース日帰り旅行のバスに乗り込んだ。ストーンヘンジはロンドン中心部から車で5時間ほど行ったサウスウェールズの広い麦畑の中にあった。古代の巨石遺跡で、それ以外、周辺には何もなかった。バースはローマ時代の温泉があった町である。今我々は風呂場のことを英語でバスと呼んでいるが、その言葉の語源になった町である。
翌9月5日、ローカル航空機でエディンバラに飛んだ。エディンバラは中心部の景色が一見、聖橋の上から見た御茶ノ水駅界隈に似ていた。谷間に鉄道の駅があり、その片側の丘の上にエディンバラ城がそびえていた。また反対側は高級デパートなどが立ち並び、その向こうに古い教会の尖塔が見渡せた。なんとなく懐かしさを感じさせる風景であった。
午後、エディンバラ城を見学。帰り道、街角の小さな教会でコンサートがあるという宣伝ビラをもらった。夕日の沈む前に2人で行った。暗い教会の中はステンドグラスだけが西日に照らされて明るく輝いていた。音楽は柔らかい弦楽曲で、教会の中にふんわりと響いた。夕日が次第に傾き、ステンドグラスは最上部が一段と明るく光り、その後急速に色を失った。すると今まで薄暗かった教会内が明るくなり、演奏者たちの姿がはっきり見えるようになった。これはまさに薪能の趣向ではないか。私は教会の木の椅子に座り、音楽を聴きながらそんなことを考えていた。素敵な光の演出とやさしい音楽を十分に楽しんだあと、私たちはホテルに帰った。
9月6日朝、まだ暗いうちに駅前からネス湖ツアーのバスに乗り込んだ。多分ネッシーに関するいろいろな展示があって、お店が林立してネッシー饅頭だとかを売っている一大観光地だろうと想像しながら、車窓の景色を眺めていた。バスに揺られること6時間、ひっそりとしたネス湖に到着した。湖は期待していたほど神秘的でなかった。周囲を低い丘に囲まれ、群青色の水をたたえた、細長い静かな湖であった。想像していたようなけばけばしい宣伝や観光客慣れした土産物屋はなかった。しかし長男は、これぞスコットランドという景色に十分満足そうであった。

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リフレッシュ休暇. リスボン

2010年9月27日月曜日

リフレッシュ休暇. リスボン

9月7日、ロンドン経由でパリへ向かった。そこで3日間ルーブル美術館をはじめ主要な観光名所を回り、9月11日、最終目的地リスボンに行った。花の都パリに比べると、時代が100年ぐらい戻った感じがした。
軒を接するように立ち並ぶ石の家々、その壁には様々な模様のタイルが埋め込まれ、細い石畳の坂道を黄色い玩具のような路面電車がきしみながら登っていく。路地の奥の薄暗いバーからは、この国独特のメランコリックな音楽が流れて、昼間から酔っぱらった男たちの騒ぎ声が聞こえた。城址公園のある丘に登ると、遥か大西洋が見渡せた。久しぶりに見る青い海、長男も私も気分が落ち着き、しばらくそこを動かなかった。
翌日12日、FILという国際会議場で学会が始まり、その午後に私の発表があった。発表が終わると、長男と一緒にエドワルド7世公園から広くまっすぐな道をロシオまで歩いて、繁華街のバイシャで買い物をし、港から船が出るのを眺めた。町のレストランに入ると、海の幸が豊富で、どの料理も日本人好みのコクがあるおいしいものが並んでいた。いわしのすり身をガーリックバターと一緒に、カリカリに焼いたパンに塗って食べた。食事をしていてなんとなく涙腺が緩むのを覚えた。息子と二人でヨーロッパの端まで来たこと、人々は親切で実にゆったりとしていること、おいしい海の幸とメランコリックな音楽、リスボンは本当に日本人のメンタリティにぴったりの町だったからである。
今回の旅の目的は長男とできるだけ会話することであった。しかし旅行中、二人は滅多に言葉を交わすことはなかった。それでもこの3週間の旅を通して、少なくとも私の中には今までなかった小さな変化が生まれた。ほとんど切れかかっていた親子の関係が、辛うじてつながったように思えた。それ故、このリフレッシュ休暇は大いに意味があったといえる。

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3.4. 研究室の設置

2010年10月18日月曜日

3.4. 研究室の設置

榊原記念病院の本部である日本心臓血圧研究振興会は、財団法人の中でも特に公益性の高い特定公益法人である。その法人格を維持するためには、単に臨床実績を上げるだけでなく、基礎的、臨床的な研究を行い、その成果を公表しなければならなかった。臨床施設である代々木の病院にはそれまで研究施設がなく、職員たちも日々の治療に忙しくて研究する時間は十分でなかった。ある時、政府の法人見直し政策により、病院にも研究を行なう体制を作るよう指導があった。そしてその役割を私が担当することになった。
そこで1992年9月、病院の別館6階に研究室を設置した。そしてこれを機会に研究助成制度を発足させ、院内の研究希望者に金銭的な援助をし、その成果を院内外で発表してもらうと同時に、院内研究会の発表内容を研究ジャーナルにまとめることにした。
事務の竹内勇君がこの作業を手伝ってくれ、一緒に研究室の概容をまとめた。まず病院にあった小さな図書室を研究室に移し、広さを約3倍に広げた。研究のための部屋とコンピュータールームを作り、残りは将来の利用のためにオープンスペースとした。
研究助成金は当初年間予算のうち数百万円を使って、院内の各研究希望者から新しい研究課題の募集をした。この制度ができると、院内の主だった医師や検査技師、看護師などのグループが早速応募した。研究助成が開始されると院内の雰囲気は一変した。それまで学会参加や論文執筆に関心の薄かった医師たちが、こぞって国内外の学会に参加して発表し、海外の医学雑誌にも投稿するようになった。それが呼び水になって国内の製薬メーカーなどから臨床治験の依頼が舞い込むようになり、次第に外国のメーカーからも治験の依頼が来るようになった。やがて国内学会での評価が高まり、国内の主要な研究機関から研究員や協力者になって欲しいとの要請が来るようになり、学会の座長や役職への就任依頼も増加した。
研究費の助成を始めると同時に、若手医師や看護師、検査技師、栄養士、薬剤師、医療事務など、院内のあらゆる職種の人が発表する院内研究発表会を行なうことにした。院内のほとんどの職員が参加するこの研究会発表会には、顧問の上田英雄先生や広沢弘七郎先生、高尾篤良先生などにも参加していただいた。そしてその成果を榊原記念病院研究ジャーナルにまとめ、毎年1回発刊して、各方面に送った。
研究室のオープンスペースは、その後、東京女子医大の研究室にあった榊原仟先生が心臓外科を始めた頃のさまざまな道具を、女子医大が整理して廃棄するという噂を聞いたので、小船井先生に相談してそれらをそっくりいただいて展示することにした。展示に当たっては、心研外科の先輩である服部淳先生にそれらについての解説書を作っていただいた。

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3.5. 病院の若返り

2010年11月15日月曜日

3.5. 病院の若返り

榊原記念病院の手術数はその後も順調に増えていった。1991年にはついに長年の念願だった年間400例の手術数が達成され、その後も増え続けた。しかし手術をする外科医の数は榊原高之先生が急逝し抜けたために、むしろ減ってしまった。
外科チームは川瀬班と龍野班の2つになった。その年の4月に私が副院長になり、手術室、ICUの責任者から外科全体の責任者になった。1992年5月、外科の常勤医として千葉市立海浜病院から加瀬川均医師がやってきた。彼は国立循環器病センターの外科のレジデントだったころ、現在本院の外科部長である菊池利夫医師と一緒に仕事をしていた。加瀬川医師は成人心臓病の外科の中でも、特に僧帽弁閉鎖不全に対する弁形成術を得意としていた。今まで榊原記念病院では、この疾患には人工弁置換術が主に行なわれていたが、加瀬川医師が加わって弁形成術もできるようになった。
その後1995年4月には、聖マリアンナ医科大学から鎌田聡医師が着任した。鎌田医師は冠動脈バイパス術と血管外科のエキスパートであり、維田隆夫医長と一緒に手術を始めた。その1年後の1996年6月、万納寺栄一医師が医院開業のため退職した。榊原記念病院の世代交代は着々と進んでいった。

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3.6. 乳児の無輸血開心術

2010年12月20日月曜日

3.6. 乳児の無輸血開心術

1990年ごろ乳児開心術では、人工心肺の回路に予め700mLほど液体を満たしていた。そのために200mLの血液が少なくとも3-4本必要であった。当時はまだ血液を介する肝炎やGVHD(移植片宿主病)などの脅威が大きく、われわれにとっては輸血なしで乳児開心術をすることが一つの夢であった。
1993年秋、アメリカの学会から帰る飛行機の中で、ある医療器械会社の社長と偶然隣り合わせに座った。私は彼に、乳児にも輸血なしで開心術ができるごく小型の人工心肺の開発を考えている話をした。彼はそれを是非自分たちにやらせて欲しいと言った。
1994年5月、私は手書きの絵を一枚彼に渡した。それには本体とポンプを金属性のカムでつないだ分離型ポンプを有する人工心肺のイメージ図であった。さらにこれを作るに当たって4つの条件を示した。(1)どの回転数でも高性能の極小型のポンプであること、(2)回路全体の充填量はコーラ缶1本(250mL)以内にすること、(3)4kg未満の乳児でも無輸血開心術が可能であること、(4)ポンプを術者のすぐ近くに持っていけるよう清潔ビニールで隔壁をすること。
これに対して会社から分離型ポンプと本体とをケーブル1本で繋ぐ、よりスマートなアイディアが提案された。これを軸にポンプの形、大きさ、本体との接続、ポールに固定する方法などが考案され、回路が検討された。翌年1995年4月、ポンプの試作機が出来上がった。回路を組み、液を満たしたが280mLとまだ多かった。動物実験を繰り返しながら回路を細くし、長さもぎりぎりまで切り詰め、最終的にはほとんど術者の背中に着くような形にして、どうやら250mLの充填量に収まった。
さらに実験を続け安全性を確認した上で、厚生労働省の認可を待った。1997年初めそれらが全て整ったところで、5kg程度の乳児で使用を開始した。新しい人工心肺は性能が良く、患者さんの全身状態は保ちやすかった。徐々に体重を下げていき、4kg台の乳児の開心術にも使用したが、特に問題なかった。そして1997年4月に3,650gの生後4ヶ月の乳児に無輸血開心術を試みた。
術者は高橋幸宏医師に任せて、私は手術室の人工心肺の後ろで成り行きを見守っていた。直径4.8ミリメートルの細い脱血管から血液が人工心肺に流れ、送血管から動脈血が赤ちゃんの体に入っていった。約1時間後人工心肺が止まり、しばらくして何事もなく赤ちゃんはICUに運ばれた。わが国で初めて3キロ台の赤ちゃんの無輸血開心術に成功した瞬間であった。
5月初めこのことが朝日新聞に掲載された。この記事を見て、榊原記念病院には無輸血手術を希望する心臓病の乳児が集まってきた。同時に全国の心臓病院で乳児の無輸血開心術に関心が高まり、やがてそれが加熱し、一部で乳児人工心肺の小型化競争の傾向がみられるようになった。
そこで千葉県循環器病センターに移ってから5年目の2002年7月、私は全国の小児心臓外科医に呼びかけて、小児無輸血開心術研究会を発足させた。この分野の外科医や臨床工学技士たちが安全な小児無輸血開心術を目指して、科学的な根拠に基づいて自由に討論できる場が必要と考えたからである。この研究会は5年間を目処に、毎年、日本小児循環器学会のときにシンポジウムを開催した。そして小型の人工心肺開発や無輸血開心術の低体重児への応用を目指しながら、安全な乳児開心術を行うための技術について議論を行った。
この研究会では2回にわたり、乳児体外循環の現状と無輸血開心術の安全限界などについて全国統計を行った。2006年7月に実施した2回目の統計では、全国の小児心臓手術病院で人工心肺の小型化が進み、小児の無輸血開心術への関心が高まった。またこの5年間で保存血の安全性が向上し、輸血の信頼性が高まった。こうしたことから、この会の初めの目的は達成されたと判断し、2006年7月、予定通りこの研究会は終了した。

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3.7. 手術室の責任者を降りる

2011年1月24日月曜日

3.7. 手術室の責任者を降りる

副院長職と手術部部長、それに研究室長として院内研究会の取りまとめや研究ジャーナルの発行、学会発表、論文執筆。八面六臂の働きをしていた1994年の秋の夜、私は自宅でビールを一杯飲んで風呂にはいった。江戸っ子の習性で少し熱めの湯に我慢して入ったところ、急に左目に硝子にひびが入ったような感じがした。左の視野の中心部外側にくっきりとした影が見えた。ゴミでも入ったのかと思って目をこすってみたが直らなかった。鏡を見ても左目に特に変わった様子はなかった。
翌朝目が覚めると左目の視野に毛糸くずのような黒い影が現れ、目を回すと少し遅れてそれもくるくると回った。目を動かすたびに視野の中で毛糸くずが回転し、めまいを感じた。私はその日の午後JR総合病院の眼科に行った。眼科の医師は、左眼の硝子体に出血があるといった。数週間たてば自然に消えるが、左眼の視力は落ちるとも言った。
言われたとおり数週間後に糸くずは消え、左眼の視力はひどく落ち込んだ。手術をしていると左右の目の焦点が合わないので、続けていると頭が錐で刺されたように痛んだ。やむを得ず私は近くのデパートの眼鏡店で新しい眼鏡を作った。その直後は境目のない眼鏡がよく見えた。しかししばらくたつとまた左眼の視力が落ちて頭が痛んだ。私は近くの眼鏡の安売り店で2つめの眼鏡を作った。しかしその眼鏡は余りにも遠距離と近距離の差が大きすぎて、かけていると目が回って仕方がなかった。仕方なく再度デパートの眼鏡店で、普段使う遠距離用と手術などに使う近距離用の境目のない眼鏡を二つ作った。結局このとき私は合計4個の眼鏡を作った。
1995年3月、小船井院長がそろそろ手術室の責任者を若い人に任せたらどうかと言った。
1979年の春から16年間、私はほとんど一人で手術室を切り盛りしてきた。孫悟空のように縦横無尽に働いてきた私だったが、その体にも変調が起こり始めていた。今回の硝子体内出血とその後の視力低下はそれを物語っていた。そこで手術室の管理を麻酔科の高尾あや子医師、外科の菊池利夫部長、維田隆夫部長の3人に任せることにした。

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3.8. 大学教授選

2011年2月21日月曜日

3.8. 大学教授選

1994年の秋、千葉大学医学部肺がん研究所外科の山口豊教授から一通の手紙をもらった。それは、ある国立大学の外科教授選に応募する気があれば推薦するという内容であった。私はその手紙を持って小船井院長に相談にいった。院長は私がやる気があるのなら応募してもよいといった。
何事も経験だと思って私は、山口教授に推薦をお願いして、大学から立候補に必要な書類を取り寄せた。それまで私は症例報告を含めて70、80篇ほどの論文を書いており、他に単行本の分担執筆などを含めると100のほどの業績があった。
しばらくして山口教授から立派な推薦文が送られてきた。私はそれと一緒に業績や履歴書など必要書類をまとめて大学の医学部長に送った。
1995年1月末に、この教授選に大学4校から4人を含む9人ほど応募者があったという噂を聞いた。さらにその後第一次選考が終わって5人の候補者が残ったという話しが伝わってきた。どうやら私の名前はその5人の中に入っているらしかった。
3月中ごろ、一通の茶封筒が送られてきた。大学の外科教授にはある国立大学の講師が決まったという知らせであった。私は淡々としてそれを読んだ。山口教授には早速その結果を知らせ、それまでの尽力に感謝を申し上げた。また小船井院長にも結果を報告した。
この教授選挙の間私はずっと考え続けていた。榊原記念病院でこの17年間自由気ままにやらせていただいた。ここで学んだことはいずれ何処かでそれをお返ししなければならない。それが榊原仟先生への恩返しになるに違いない。そう考えると私は、今後場所さえあれば何処へでも出ていってもよい、そこで思い通りにやるだけだと思うようになった。今回の大学教授選に応募した最大の成果は、むしろ私の心にこうした変化が生まれたことであったかもしれない。

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3.9. 大学教授選と同級生からの電話

2011年3月21日月曜日

3.9. 大学教授選と同級生からの電話

1996年2月、母が肺炎で亡くなり、翌3月に次男の大学入学が決まった。4月に私が所属していた大学の医局の主任教授から電話があった。やはり地方の医科大学の外科教授選挙に立候補してみないかというものであった。妻に話すと「あなたがやりたいなら、私はいいわよ」と、いつもの答えが返ってきた。私はこういう場合、榊原先生ならどうおっしゃるだろうかと考えてみた。そして多分先生は、こうしたときは常にそうであったように、「龍野君、やってみ給え」というだろうなと思った。
5月、私は主任教授からいただいた立派な推薦文とともに必要書類を大学に送った。夏になった。書類を提出してから3ヶ月たったが、大学からは何の連絡もなかった。選挙はなかなか行われず、近々候補者を増やすために再募集をかけるという話が聞こえてきた。
9月のある日、千葉県立鶴舞病院の中村常太郎院長から電話があった。2年後の春に千葉県循環器病センターという新しい病院を作るので、一度話しを聞いてくれないかということであった。そこで10月、学会の折に東京でお会いする約束をした。院長の話はこうであった。「県立の循環器病センターが鶴舞病院の跡地にできることになった。ついてはそのセンター長に君になってもらいたいのだがどうか。」私は、今、大学の教授選挙に立候補しているので、折角であるがこの話はお断りしたいといった。
翌1997年1月になっても大学の教授選挙は行なわれなかった。そんなある日、大学教授の同級生から電話があった。彼はいきなり私にこういった。「君も少しは世のため人のために働いたらどうだ。」しばらくして外科教授からも「ぜひ千葉に来るように」と電話があった。二月に入った。今度は免疫学の同級生から電話をもらった。彼は医学部長をしており、大きな影響力を持っていた。「今は教授選の最中で、他の病院への誘いを受けられない」という私に対して、「とにかく一度県の衛生部長と会ってみてくれ」と彼はいった。
数日後、再度彼から、県庁近くの待ち合わせ場所に来るようにと電話があった。当日指定された所に行くと、医学部長と中村院長が私の到着を待っていた。しばらくすると県の衛生部長もやってきた。話はほとんどが新しくできる循環器病センターの構想のことであった。会合の後、学部長が小声で一言私に「合格だよ」といった。この人事はすでに私の意向とは無関係に進んでいるようであった。
数日後、県の衛生部長が私を直接訪ねてきた。彼は私に近々県知事に会って欲しいといった。話がここまで進んでしまっては、黙っているわけにいかなくなった。教授選への立候補は小船井院長から承諾をもらっていたので、私は院長に今までの経緯を率直に話した。
話を聞いていた院長は、「大学の教授選の方をやめよう」と言って、その場で電話をとった。推薦してくれた大学の主任教授と話して、すぐに今度は地方大学の学部長に電話した。「都合で龍野君の教授選の立候補を取り止めにしていただきたい。」この間30分ほどであった。教授選の話は消えて、千葉県循環器病センターへの赴任が事実上決まった。
2月の寒い日、院長と私は電車で千葉に向かった。途中あいにく車両故障で約束した時間よりだいぶ遅れた。県庁に到着し、数分間知事と面談した。私は挨拶しただけだったが、小船井院長が、「龍野君は私たちにとっても大事な人なので、県でも大切に扱ってください」といった。

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3.10. 榊原記念病院を辞す

2011年4月18日月曜日

3.10. 榊原記念病院を辞す

榊原記念病院の手術は3月いっぱいで辞めた。1997年4月1日、私は千葉県衛生部の嘱託になり、週1回、市原市鶴舞の千葉県立循環器病センター設立準備室に通うことになった。しかしまだ残された仕事が2つほどあった。それらが終わり、榊原記念病院の仕事をすべて整理してから、7月1日に正式に千葉県職員になることにした。
5月にハワイで世界小児心臓病・心臓外科会議があって、妻と一緒にでかけた。これが榊原記念病院の職員として最後の国際学会での発表であった。6月に日本胸部外科学会指定施設協議会の研究会を主催した。全国から約100名の参加者があり、盛会のうちに終わった。
これらのことで最後の3ヶ月間は忙殺されて、20年間の後始末をつける余裕がなかった。ただ、私がいなくなっても困らないようにだけはしたいと思った。今までやっていた外科の役割は全て、川瀬光彦副院長、菊池利夫、維田隆夫の両外科部長、加瀬川均、高橋幸宏、鎌田聡の各外科医長に任せた。研究会や研究ジャーナルの編集などは小児科の村上保夫部長にお願いした。外来患者さんは小児科の森克彦部長、三森重和副院長、内科の松田三和先生、阿部光樹先生などにお願いした。
村上部長は私と妻を送り出すのに、小さな祝宴と箱根の温泉一拍旅行を用意してくれた。6月末の土曜、日曜日、箱根を二人で旅しながら、長くもあり、短くもあった榊原記念病院での20年間を振り返った。榊原仟先生に誘われ建築中の病院に赴任して以来、私はまるで孫悟空が如意棒をふるい、金途雲に乗っているかのように、榊原記念病院の心臓外科の世界を駆け巡ってきた。しかしもはやその役割も終わった。そうした荒仕事は次の世代に任せ、7月から私はまた新しい所で、榊原先生の考え方、榊原イズムを広げていくことにしよう。温泉宿の湯船に一人で身を沈めながら私はそう考えていた。

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