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心臓外科の父と天才外科医「榊原仟と今野草二」

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第1章 榊原仟先生と今野草二先生

はじめに

榊原先生

これは私の恩師、東京女子医科大学日本心臓血圧研究所教授、榊原しげる先生と今野そう先生の話である。

榊原仟先生は、言うまでもなくわが国の心臓外科の泰斗であり、太平洋戦争後、この国の心臓外科の扉を開き、それを世界的なレベルまで引き上げた最大の功労者である。心臓病医療界における‶巨大な山脈″ともいえる榊原先生の下には、1949年からおよそ30年間に内科、外科、小児科、基礎研究者を問わず、 心臓病の研鑽を希望して、全国からさらに外国からも若者たちが参集した。彼らはその広い裾野で研究と臨床に励み、互いに切磋琢磨しながら知識と技術を習得し、それらを日本各地、そして外国へと広めていった。そうしたことから榊原先生は、日本の‶心臓外科の父″と呼ばれるようになった。

その大きな山塊の奥にひときわ高くそびえる鋭く白い鋒、それが今野草二先生である。今野先生は榊原教授の下で心臓外科学を学び、今日でも世界中で使用され、実施され、引用されている医療器械や手術術式、疾患の成因に関する研究などを行った。そして榊原先生の後継者として、38歳の若さで東京女子医科大学日本心臓血圧研究所(女子医大心研)の外科主任教授になった。私はこの二人が亡くなられる間際まで、直接ご指導をいただいた。

今野先生

榊原先生については、マスコミ等にたびたび取り上げられ、またご自身や関係者が出版した著書も多数あって、それらに先生の人物像や業績などが詳しく書かれているので、もはや追記の必要はないと考える。そこで今回は、今まで公にされることが少なかった、先生ご自身が発案・指導して作られ、実際に使用された医療器械などを主に紹介したいと思う。

一方の今野先生は若くして亡くなられたため、自らの日常生活を語った著作は残されていない。その素顔を知るには、ご家族に話をうかがうか、先生自身あるいは学友や医局の同僚たちが綴った文章を丹念にたどっていくしかない。心臓外科医としての17年間、今野先生はそれこそ超人的な医学業績を上げ、‶天才外科医″と称された。そのため、「今野」の名は心臓外科医や一部の循環器科医の間では世界的に有名であるが、現在一般社会でその名を知る人は極めてまれといえる。そこで今野先生については、業績だけでなく、幼少時から女子医大時代までの言動をできる詳細に述べて、その素顔に迫りたいと思う。

お二人のプロフィール

榊原先生は1910年10月13日、榊原久氏、しん様の4男として福井市宝永上町に生まれ、1936年東京帝国大学医学部を卒業、母校で外科学を修得した。1949年7月、東京女子医学専門学校 (東京女子医専、後の女子医大)の外科教授に就任した。一方今野先生は、1932年8月26日、今野信藏氏、様の次男として三重県津市に生れた。1958年3月、京都府立医科大学(京都府立医大)を卒業し、インターンを経て1959年、女子医大心研の外科に入局した。二人とも地方の中核都市で医家の家庭に生まれ、榊原先生が8人兄弟姉妹の真ん中であったのに対して、今野先生は4人兄姉弟の末っ子であった。 榊原先生は抜群の頭の回転の速さと素早い行動、少し慌て者だが失敗を恐れず突き進む‶猪突猛進型″であったのに対し、今野先生は日常生活、仕事のどちらも綿密に下調べをして、計画通り寸分の狂いもなく、スマートに完成させる‶完璧型″であった。

二人は読書家であった。榊原先生は大学時代、冬山で遭難して肋膜炎になり、1年間、兄榊原亨博士が岡山市で開院した病院に強制入院させられた。その間に医学書以外の本を読み漁り、読書三昧の生活を送った。後に先生は女子医大の学生たちに、寝る前の30分間、医学書以外の本を読みなさいと勧めている。
今野先生は学生時代、図書館に籠って一人で勉強し、同級生によれば、〝京都府立医大図書館卒業″と揶揄されたほど、書物漬けの生活を送っていた。
榊原先生は旧制第六高等学校時代、陸上部に所属、長距離走で心身を鍛えた。そのため、2度にわたる戦地への出征とその後の上海赴任で過酷な状況に陥ったが、何とかそれらを切り抜けた。今野先生は大学時代水泳部に所属し、細くしなやかな体と抜群の集中力で、西日本医学生体育大会において京都府立医大水泳部を準優勝に導いた。

図1)アメリカでの榊原・今野先生
図1)アメリカでの榊原・今野先生

二人とも絵画を得意として、どちらもその腕前は素人の域を超えていた。榊原先生は油絵や水彩画が専門で、二科会の展覧会に何度も入選した。自宅を改造するときに自分のアトリエを作ったくらいである。その描く速さは手術と同じく猛スピードであった。先生は生涯に200点ほどの油絵や水彩画、素描を残したが、それらは後年、門下生らによりDVDにまとめられた。一方今野先生は線画や版画を丁寧に描いた。線画は生き生きとしていて、版画は洒脱な趣があった。大学の級友や医局の先輩たちは、毎年今野先生から送られてくる版画の年賀状を楽しみにしていた。後年今野先生は、その技術を駆使して、細密な挿図を数多く載せた「外来の外科」という教科書を独力で書いた。

このように確かに共通点の多い二人であったが、性格はほとんど正反対といってもよかった。榊原先生は開けっぴろげ、笑い上戸、快活で少しおっちょこちょい。冗談話が大好きで、自他ともに愉快にした。酒、ゴルフ、若い人とのどんちゃん騒ぎをこよなく愛し、宴会では常にその中心にいた。そのため榊原先生の周りには、年齢、性、職種を問わず様々な人たちがいつも大勢集まっていた。これに対して今野先生は、寡黙で、超然としており、何事も一人でやり抜くところがあった。酒もゴルフもやらず、甘いものに目がなく、ときに宴会やパーティでコーラスを披露することはあっても、普段はもの静かで、羽目を外して騒ぐようなことは滅多になかった。

そうした二人であったが、榊原先生は特に今野先生を可愛がった。一緒にアメリカに講演旅行に出かけたこともあった(図1)。また榊原先生の後任として今野先生が外科の主任教授に選ばれたとき、榊原先生は心から喜んだ。それだけに、今野先生が早逝したとときの落胆ぶりは一通りではなかった。

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第2章 榊原先生の業績

榊原先生の業績

榊原先生の生涯と業績については、既に多数の出版物に詳しく書かれている。先生の研究と臨床の業績は、そのスケールも内容も桁外れであり、ここにはそれらを詳しく述べるスペースがない。そこで先生の業績は概説のみとし、本章では主に先生が主導して東京女子医大心研で開発され、現在は榊原記念病院に保管されている医療器械などを紹介したい。

榊原先生が東京大学第2外科から東京女子医専の外科教授として赴任したのは、1949年7月、38歳のときである。当時の東京女子医専は戦火で校舎の大部分が焼かれ、戦後の労働争議により学校内は極度に疲弊していた。学生たちは長い間授業を受けておらず、外科の医局員はわずかに1人、病室には患者が数人、実験室にも試験管が数本あっただけであった。血圧計や顕微鏡は他科に借りに行かねばならず、手術室は雨漏りがしていた。そんな東京女子医大を先生は、塗炭の苦しみを味わいながら、わずか20年足らずで心臓外科の日本のメッカに育て上げた。

1951年5月5日、榊原先生は兄の亨博士とともに、動脈管開存の手術をわが国で初めて成功させ、日本の心臓外科の扉を開いた。東京女子医大には全国から心臓病患者が押し寄せるようになり、先生は、それらの患者により良い医療を受けさせるために1955年5月、内科、外科、小児科の壁のない〝センター方式″の日本心臓血圧研究所(心研)を開設した。そして10年後の1965年、当時世界一といわれた心研の新病院を建設、さらに財団法人の振興会を立ち上げ、これを母体に1968年、心研研究部を設立した。こうして東京女子医大に日本一の心臓病の治療・研究センターを作り上げた。この間、東京女子医大で手掛けた心臓手術は1万例、育てた門下生は、内科、外科、小児科、理論外科を含めて数百人、短期研修医師や孫弟子まで加えるとその数は数千人に達した。さらに日本各地に10数か所の拠点施設を築き、それらに門下生を派遣して、心臓血管外科医療の全国への普及を図った。先生はその後、筑波大学の建学に参画し、大学発足と同時に副学長に就任した。さらに最晩年の1977年11月には、榊原記念病院を創建した。

活躍はそれだけではない。数多くの国内、国際学会の会長や役員を歴任しながら、先生は学生や実地医家の教育にも力を注ぎ、同時に東京消防庁と協力して、東京都CCUネットワークや心電図の電話伝送の新しい医療システムを創設するなど、地域医療体制の充実にも貢献した。

心臓鏡

図2)心臓鏡
図2)心臓鏡

1951年5月、日本で最初の心臓手術、動脈管開存の結紮を行ったころ、榊原先生は心臓の中を見ながら手術をするために、心臓鏡の改良に取り組んでいた(図2)。戦前の1938年ころ、榊原先生の兄亨博士は、心臓鏡による僧帽弁の手術に挑戦した。残念ながら戦争によってその研究は中断せざるをえなくなり、病院も焼失して、資料の大部分が失われた。こうした経緯から戦後、東京女子医専の教授になった榊原先生は、兄の研究を引き継ぐことにした。その研究を榊原先生と共に行ったのが飯川豊彦氏である。それまでの心臓鏡は、視野を得るために心臓内に生理食塩水を吹きつけていた。飯川氏は先端に透明なバルーンを付け、それを膨らませ心臓壁に押し付けることで、心腔内を観察する方式に改めた。これによって心臓内を何度も繰り返し観察できるようになった。

低体温法

図3)低体温麻酔の水槽
図3)低体温麻酔の水槽

心臓の中が覗けたことは確かに素晴らしく、当時アメリカでも高い評価を受けた。しかしそれを使って実際に心臓の内部の手術をするとなると、大きな困難が伴った。心臓鏡の研究を進めながら榊原先生は、何とかして静止した心臓の中を直接目で見て、病気を治したいと考えていた。
アメリカでは1937年からギボンが人工心肺の製作を始めていた。さらにもう一つの開心術の補助手段である低体温法も1951年、ベイリーらによって臨床に応用された。
「人真似はしない、独自の方法を開発する」という方針から榊原先生は、当時実験で頭だけを冷やしたり、体全体を冷やしたりして、安全な方法を模索していた。榊原先生が低体温法を用いて心房中隔欠損の開心術に成功したのは1954年のことである。図3はそのときに用いた冷却用の水槽である。

フィルム交換型X線連続撮影装置

図4)心血管造影連続撮影装置
図4)心血管造影連続撮影装置
 

榊原先生は、心臓の中に血液が流れていく様子をレントゲンで連続撮影できたら、心臓病の診断は格段に向上するだろうと考えて、心血管造影連続撮影装置の開発を東京女子医大放射線科の島津ふみよ教授に依頼した。出来上がった装置は、梯子の上にフィルムカセッテを並べただけの単純なものだった(図4)。
この装置は一人が患者に造影剤を注入すると、他の一人が秒読みを始め、これに合わせて別の一人がX線のスイッチを入れたり切ったりする。そして数人がかりで、1,2,3の号令に合わせて梯子のカセッテを一枚ずつ送り出す。まことに原始的な方法であったが、出来上がった画像は、その頃としては立派なものであったという。

麻酔用陽陰圧人工呼吸器

図5)陽陰圧麻酔器(部分)
図5)陽陰圧麻酔器(部分)
 

戦後の日本には満足な麻酔器がなかった。犬で実験するために、町で拾ってきた防毒マスクのゴム管で麻酔器を作ったりしたという(図5)。動脈管開存の手術の時は、東大第二外科で作った国産第一号の麻酔器を借り、東京大学から専門家を呼んで麻酔をかけてもらった。その当時は開胸すること自体に危険があったので、手術の時は大変緊張したとのことである。

爆弾あられ型人工心肺

図6)「爆弾あられ型」人工心肺
図6)「爆弾あられ型」人工心肺
 

1953年ギボンが人工心肺を用いて心房中隔欠損の閉鎖に成功した。同じころ東京女子医大でも人工心肺の開発に着手していた。当時はガラスで作った酸素加装置をイルリガートルの中に組み込んで、木製のローラーポンプで血液を回転させる織畑式木造人工心肺であった。しかしその道のりは険しく、1953~4年ころは実験した犬がことごとく死んだ。女子医大でこの人工心肺による開心術が成功したのは1956年のことであるが、大阪大学の心臓外科グループに先を越された。その後皆川健次氏は独自の銅製の円い人工肺を作った(図6)。榊原先生が「爆弾あられ型」と名づけたその人工心肺は、円筒を斜めに配置して回転させ、その中に血液を流し酸素を吹き込むものであった。酸素加効率はよかったが、血液凝固や溶血の問題が解決されていなかった。これを用いて実験を繰り返し、応用する機会を窺っていたが、結局この人工心肺は日の目を見ずに終わった。しかこの間に重ねた様々な工夫が、後に独自の人工心肺を開発するのに大いに役に立った。

遠心型人工心肺

図7)遠心型人工心肺
図7)遠心型人工心肺
 

遠心型人工心肺のルーツが皆川氏の爆弾あられ型人工心肺にあることは、その構造から明らかである(図7)。この人工心肺は石原昭氏が設計した。人工肺は円盤を何枚も上下に積み重ねて回転させ、その最上部から血液を流し、下方から酸素を吹き付けて酸素加する構造であった。
アメリカで開発されたケイ・クロス人工肺に比べて充填量が少なく、酸素加効率が良く、溶血も少なかった。そのため遠心型人工心肺は、1962年8月メキシコ市で行われた第4回世界心臓病学会で展示されると、大きな反響を呼んだ。

重量式使い捨て人工心肺

図8)重量式使い捨て人工肺(改良型)
図8)重量式使い捨て人工肺(改良型)
 

遠心型人工心肺は構造が複雑で、大きく重く、使うためには多くの時間と労力を必要とした。そこで藤倉一郎氏は1967年頃、より簡易なビニール製のディスポーザブル人工肺を考案した。藤倉氏はそれを秤にかけてバランスを調節する重量式人工心肺とした(図8)。
藤倉氏の開発した使い捨て人工肺、重量式人工心肺は、1970年代後半まで日本だけでなく、東南アジアやソ連(当時)などにも輸出され、使用されていた。その後より溶血が少なく、長時間灌流が可能な人工肺が求められるようになり、今野先生が主任教授になると、ランデ・エドワード積層型膜型人工肺やコロボウ内部灌流型ホローファイバー人工肺が導入され、やがて外部灌流型のホローファイバー人工肺が使われるようになった。

見学者記名帳

図9)見学者の署名(リレハイとビジョルク)
図9)見学者の署名(リレハイとビジョルク)
 

新しい心研病院ができたのは1965年5月のことで、330床の心臓病患者専門病院は当時世界一といわれた。診療設備は最新のものを備え、手術室も病室も広めに設計されていた。その分、教授室をはじめ医局や研究室は手狭で、レジデントの机などは共用であった。この病院には新しいシステムが次々に投入され、日本で最初のCCUも設置された。患者はモービルCCUと称する医師が乗って出動する救急車から、専用のエレベーターで直接CCUへ収容された。同じフロアには手術室があり、隣接する10床のICUと3室からなる心臓カテーテル検査室もあった。一般病棟では心電図をテレメーターによって常時監視する装置が設置されていた。1955年5月に心研が開設されて以来、女子医大には国内外から見学者が大勢やって来た。その人たちが書き残したサイン帳が振興会に残されている。その中には国内外の著明な外科医たちの名前も多数含まれていた(図9)。

榊原先生の訓え

榊原先生は筑波大学の副学長をしていた1976年5月、肺がんになった。国立がんセンターで手術を受けて、がんは一旦軽快した。その後、榊原記念病院の設立に最期の力を注ぎ、それをわずか一年余りで完成させた。しかしその2年後の1979年9月28日、肺がんが再発し、榊原先生は68歳で波乱に富んだその人生を閉じた。榊原先生の生涯はまさに激動の連続であった。先生は常に大きな目標に向かって持ち前のユーモアとパワーで立ち向かい、類まれな幸運にも恵まれて、それらを見事に成し遂げた。

榊原先生の功績は単にたくさんの事業を成し遂げ、それを全国に広げたというだけではない。先生は自ら得たもの、作り上げたものを惜しみなく周囲の者に分け与えた。そして彼らの力を存分に引き出しながら、独自でより高いレベルの心臓外科医療を実現した。先生の下では誰もが自由に発想し、アイディアを述べることができた。榊原先生はしばしば若手医師にこう言った。「君それは面白い、はやくやり給え」と。そして実験によってその正しさが証明されると、直ぐに臨床に応用した。そのことが内科、外科、小児科、基礎研究者を問わず、多くの若い臨床医、研究者をのやる気を引き出し、次々に新しい発見や発明が生まれる原動力になった。
こうした榊原先生の生き方は、それ自体が心臓病の医療・研究を志す若者たちにとって貴重な教訓であり、その訓えは〝榊原イズム″あるいは〝榊原ハート″として今日なお語り継がれている。

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第3章 今野先生の生涯(1)

幼少年時代

「人真似はしない、独自のアイディアで勝負する」という榊原先生の方針通りに、東京女子医大心研の恵まれた環境をフルに生かして、研究に臨床に活躍したのが今野草二先生である。今野先生が心研に入局したのは1959年6月、榊原先生が東京女子医大で心臓病の理想的な臨床・研究施設の構想を描いていた、まさにその時期であった。

今野先生は1932年8月26日、父、今野信藏氏、母、せつの様の次男として、三重県津市で生まれた。父の信藏氏は京都府立医科大学を卒業し、三重大学医学部眼科に入局したのち、津市中央で眼科医院を開業した。絵画や乗馬のほか多くの趣味を持ち、多忙な毎日を送っていたとのことである。子供は男2人、女2人の4人。今野先生は次男で末っ子であった。長男の信一氏は大層真面目な性格であったのに反して、草二少年は小さいころ腕白で、父の信藏氏をしばしば悩ませたとのことであった。兄の信一氏は京都大学を卒業し、関西医科大学の眼科助教授を勤めたあと、父の眼科医院を継いだ。

津市は伊勢湾に面していて、今野家から海までは1km足らずであった。草二少年は幼い頃、しばしばお手伝いさんに連れられて海へ泳ぎに行き、水泳が得意になった。甥の今野信太郎氏によれば、後年今野先生は実家に帰省したとき、海に行って手製の銛で小魚を仕留めては、それを料理して食べたとのことであった。今野先生は津市養正小学校、津中学校、県立津高等学校をそれぞれ卒業した。

東京女子医大心研外科に在籍していたころに今野先生が書いた「バナナ」と題した回想文には、少年時代のことが次のように書かれている。

その頃はすでに大東亜戦争の敗色も濃く、紺碧の空をゆうゆうと飛ぶB29の翼にキラキラと真夏の太陽が輝き、地上では猫の額のような空地にまで、かぼちゃを作って飢えをしのいでいた時代なので、バナナなど見たこともありません。父の昔話から子供心に空想が空想を生み、よほどすばらしいものだろうと憧れ、一生のうちにいちどはバナナを食べてみたいというのが私の最初にいだいた野心でした。

私どもの田舎には風船爆弾の隠し工場があったので、早くから多数のアメリカ兵が進駐してきました。のどかな田舎道に砂ぼこりをまいあげジープが通りかかると、飢えた子供達がわれさきにと走りよって「チョコレート」「チューインガム」などと無駄なさけび声をあげたものです。幸か不幸か私たちの担任をしておられた漢文の先生は極めて厳しく、潔癖な方で、自ら民族の矜持を踏みにじるようなまねを決してしてはならないと厳しくたしなめられておりました。日頃から敬愛していた先生でもあり、また級長をしていた立場からも、私は生まれてはじめて口にしたチョコレートの甘さを得意に話し合っている仲間に羨ましそうな顔もできず、生つばをのみこみながら無関心をよそおわなければなりませんでした。

このようなある夕暮、進駐軍の将校が角膜潰瘍を病らって(原文のまま)父の診察を受けにきました。外で待っている間、運転手はジープのドアに長い足を乗っけてふんぞりかえり、バナナを一房取り出してムシャムシャと食べ、集まった近所の子供達にも一本ずつ分けてくれました。すぐさま駆けよれば私も1本にありつけたはずですが、ひとつには幼いなりに成長しはじめていた虚栄心に出足をくじかれ、いまひとつには戦争中に配給されて知っていた乾バナナとあまりにかけはなれた外見のため、判別がつかずとまどっている間に一房のバナナはすっかりなくなってしまいました。平静をよそおってはいましたがその夜はさすがに落着けず、こっそり庭先に出てGIのすてたバナナの皮をひろいあげ、秋深い月影にてらして鼻先へもっていったときの甘美な香は忘れられません。宝島に出てくる緑濃い熱帯の島、瑠璃色の水をたたえた静かな入江に吹く南の風に耳をかたむけ、陶然と立ちつくす私の周囲にはこおろぎの声がひときわ高く、夜風が身にしみました。このバナナの皮を引き出しの奥深くしまいこみ、毎日毎日取り出しては南国の夢に酔い、しまいには甘酸っぱいわく的な腐敗臭を発するまでひとりで楽しんでおりました。
この頃三時はバナナだよというと子供達もいい顔をしません。ずいぶん時代もかわったものだと、つくづく考えさせられます。

大学時代

今野先生は1952年4月横浜国立大学に入学し、後に東京女子医大心研で朋友となる橋本明政氏と同級になった。そして2年後横浜から京都に移り、京都府立医科大学に入学し、そこで4年間学んだ。学生時代の今野先生は、色白でやせ型、細い体を鞭のようにしならせて、水泳に打ち込んでいた。授業にほとんど出ず、一日中図書館に籠り、一人で勉強していた。絵が得意で、クラス誌の「青桐」にしばしば素晴らしい絵や文章を載せたり、卒業アルバムを完成させたり、学友たちと交流を深めた(図10)。
またコーラスにも熱心に取り組んでいた。

図10)車に乗った今野先生と友人たち
図10)車に乗った今野先生と友人たち

同級生の渡部高久氏は、当時の今野先生について次のように記している。

絵画、音楽、英会話、水泳、登山等多趣味であり、卒業アルバム委員として独創的なアルバム作成に活躍した。またクラスの機関紙「青桐」にも、たびたび叙情あふれる詩や挿絵を投稿してくれた。彼はガリ勉型の秀才ではなく、誠実で責任感が強く、生粋の自由主義者で、学校の授業には殆ど出席せず、生理学、生化学、外科など講義時間には図書館で同一科目を独自に勉強し、卒業まで一課目もビーコンをくらわなかった非常に魅力的な秀才であった。よく同級友が、あいつは『府立医大図書館卒業』だとからかっていたのを思い出す。
さて彼の故郷は三重県津市で、御父君は本学の出身で三重大学医学部の眼科教授であったと聞いており、御長兄も阪大の眼科助教授を勤められた学者一家で育った。坊っちゃん育ちのせいか非常に浪漫的であった反面、純粋で合理主義でもあった(原文のまま)。

今野先生の水泳については、同級生たちのほとんどが同じ感想をもっていた。水泳部で一緒に活躍した細田澄之氏は次のように語っている。

彼は誰も知る自由形。特に百米、二百米の水泳選手であり、西日本医学生大会には四国・岡山・九州へと縦横に活躍した。彼の泳ぎは力強い泳ぎではなかったが、か細い腕と体を巧みにつかって、頭脳的なスマートな泳ぎで、他を引き離して行った。私も水泳部で彼と同じ自由形で、百米、二百米と一緒に泳いだものだが、私の様に馬力だけで泳いでいるのでは、いつも彼の後塵ならぬ後波を拝すのみであった。そして練習も非常に厳しく、第二内科の三品先輩、同級の赤松、中西君らの遠距離の猛者達と共に千米・二千米と毎日泳ぎ続けるファイトは私如き二百米そこそこでアップアップの者には脅威のまとであった。洗濯板の様な胸、細きこと白鷺の如き腕と、痩身は、初め相手に油断を与え、次いで恐怖と終わりに驚嘆を与えたものであった。

東京女子医大心研に入局後も今野先生は水泳で活躍した。内科の廣澤弘七郎教授は次のように述べている。

学生時代キャプテンをしていたと聞く水泳は、あなたの特技の一つでした。若い医局員たちを軽く押さえて一着をとり、ちょっぴり誇らしげであったのを何回も見ました。昨年あたりは夕方の一時を抜け出してダイビングの練習までし、その終了証を見せられたのには、あきれもしました。

図11)版画の兎
図11)版画の兎

絵心はおそらく父親譲りと思われる。同級生の岡崎清二氏は次のように述べている。

干支の絵がすばらしかった。年賀状は毎年七百通ばかり来るが、印象的な達筆の年賀状や心憎い様な挿図などの絵入りの年賀状は十指に満たない。彼の書いた干支の絵はいつも元気で生き生きとしておりひきつけるものがあった。毎年頂いていたので、最近はむしろどちらかと云えば送って来るのをたのしみにしていた。この私のささやかなたのしみも龍の年で天に消えてしまった。」(図11)

京都府立医大を卒業した今野先生は、1958年4月からインターンを京都第一赤十字病院で行なった。医師国家試験が終わると、同級生はそれぞれ自分の進路を選ぶ。今野先生はそこで一大決心をした。同級生の松下光延氏は、その時の今野先生について、次のような逸話を紹介している。

国家試験も終わり同級生がそれぞれ自分の専攻を決めはじめていた頃、ある朝彼が私の下宿にふらりと現れ『実は第三内科に入局することを決めてあったが、どうも内科をやるより心臓外科をやってみたい。いろいろ考えて、東京女子医大の榊原教授の所に入局することに決めた。ついては、僕が増田教授にことわりに行きにくいから,すまないが頼まれてくれないか』と云うことであった。私は彼が第三内科に入局を決めていたことを全く知らされていなかったので驚いたが、数日後、彼に頼まれた様に、増田教授をおそるおそる訪ね、その旨申し出て了解をえたのであった。

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第4章 今野先生の生涯(2)

東京女子医大心研外科に入局

1959年5月今野先生は医師国家試験に合格、一旦は母校の第三内科に入局を決めた。しかしそのあとで心臓外科がやりたくなり、同年6月、東京女子医大心研外科に入局した。その頃榊原先生は、東京女子医大に理想的な心臓病の臨床・研究施設を建設する構想を練っていた。「人真似はしない、独自のアイディアで勝負する」という榊原先生の方針通りに、東京女子医大心研の恵まれた環境をフルに生かして、今野先生は研究に臨床に縦横に活躍した。

今野先生は1962年7月21日、結婚し、翌年双子のお子様が生まれた。その後今野先生は1967年10月、東京女子医大心研外科の講師に昇進し、1969年8月、心筋バイオトームの発明とその臨床応用の研究が評価されて、朝日学術奨励賞を受賞した。さらに1969年12月に心研外科の助教授、1971年6月、主任教授に昇進した。

バナナ

心研での今野先生は、一人で黙々と研究していることが多く、普段の生活を窺うことは難しい。入手した数少ない資料から、医局や出張先での過ごし方を探ってみたい。今野先生は入局後、秋田県立中央病院の心臓血管外科に派遣された。そこで経験したことを前にも述べた「バナナ」の後半で次のように語っている。

10年ほど前、秋田に出張しておりましたが、その頃はすでに日本経済も軌道に乗り始め、都会の生活はずいぶん贅沢になっておりました。しかし山間僻地の生活は想像もつかないくらい貧しいものでした。秋田市から汽車で3時間、さらにバスで2時間、そこから歩いて峠を越え4時間かかるという山奥へ、熱心な保健婦が巡回診療にいったとき、心室中隔欠損兼肺高血圧症の子供を見つけ、出費を心配する家族に、すべて書類を書けば国が金を出して面倒を見てくれるからと説得してつれて来ました。熱心なケースワーカーの努力で、入院、手術料から交通費まで生活保護でまかなってくれるようになり一安心しました。検査してみると肺高血圧は100%で当時としてはきわめて危険な手術です。

いよいよあした手術という日、お袋さんがおどおどしながら私の部屋を訪れ、同室の子供がバナナを食べているのをみて、うちの子も食べたそうにじっと見つめているので切ない、死ぬかもしれない手術を前にして、なんとか食べさせてやりたいので、ひとつ書類を書いて福祉事務所からバナナを買うお金を出してもらえないかと云うことです。とっさに『よろしい、バナナを買ってくれという書類を作って福祉事務所へまわしましょう』と伝え、裏口から八百屋へ走りました。

あのバナナをどんな気持ちで食べたでしょうか。その子供は手術の夜、肺水腫を起して死亡してしまいました。暖房の消えかかったひえびえとした手術室で、中島君と必死に心臓マッサージを続け、小さなやせこけた手足がだんだん冷たくなっていったときは、ひしひしと医者の無力感をかみしめさせられました。お袋さんが、死ぬまえに市電も見ることができたし、バナナも食べさせることができたのでよかったですと涙も流さず云ってくれたときは、いいことをしたような後ろめたいような、身の置き処のない気持にさせられました。

インドネシアの心臓外科

1968年7月から1年間、日本政府が海外技術援助(OTCA)の一環として、インドネシア大学に心臓外科の技術援助をすることになった。心研からは榊原教授をはじめ、何人もの人たちがインドネシア大学で心臓手術の指導と医療技術援助を行なった。藤倉一郎氏も当時その一員として3ヶ月間ジャカルタに滞在した。藤倉氏はそのときのことを次のように語っている。

国立インドネシア大学の中に、新しいこの研究所を発足させたのは1966年で、その研究所長にはDr. Santosoが就任した。それに外科、内科、小児科の専門医20数名でほそぼそと始めた。そこでOTCAを通じて、Dr. Surarsoが、私たちの心臓血圧研究所に留学し、ついで榊原教授との話し合いの結果、日本から、人工心肺はじめ、種々の器材を供与できるようなら、技術協力は、この国立心臓研究所が独り立ちできるまで続けましょうということになった。昨年(1968年)7月、榊原教授は数名の医師団とともにジャカルタに赴き、先に述べたように、公開手術を行って十分な成果を収めたわけである。これは医師の間だけでなく、一般民衆にも高い評価を受け、インドネシアとしては、彼等もついに心臓外科という医学の最先端に到達した感激を味わった様である。と同時に、日本医学に対して十分、認識を深めるチャンスとなったのである。
その後、2人ずつのチームが3ヶ月ごとに交代して、私は第3次チームに選ばれたわけであるが、この間、インドネシア・チームとしてはまれな積極性を発揮し、我々の技術協力はすこぶる順調に進行した。一般に週2回の手術を行い、主として人工心肺を用いた開心術を行って、この間の麻酔、術中管理、体外循環理論、手術手技、術後管理などについて指導をしたのである。

以上でインドネシアの心臓外科はすっかり独立して、長生きしていく可能性があるように見えるが、周囲の状況を考え併せてみると、実際にはどうであるか考えてみよう。この開発途上国のインドネシアは衣食以外に余裕のないのが実情である。したがって厚生施設などはすべて外国の援助を待っている。国立心臓研究所といえ同じことで、日本政府から贈られた種々の器材が、将来も十分に活用され、糸口をつくるためのわれわれのささやかな努力が芽生え、成長するためには、たえずafter careに心を配り、不足の機材を年々追加、贈与し、彼等の心臓外科発展への情熱をかきたて、決して阻害することがないように努めなければならない。

こうしたインドネシア大学の実情に対して今野先生は、藤倉氏の報告を添付して、次のような要望書を日本心臓血圧研究振興会に提出した。

昭和43年7月以来、榊原教授はじめ14人の心臓外科医がインドネシア大学におもむき心臓手術の指導、協力に当たってきた。榊原教授の木目の細かい、相手の立場にたった指導が効を奏し、嘗て海外技術協力事業団が手がけたどのプロジェクトよりも優れた成績を上げることができた。添付の参考資料にみられるように、インドネシアの心臓グループは設備、人材ともに独立できる状態になっているが、残念ながら心臓手術には必要不可欠な消耗資材である人工肺の供給が続かず、せっかくの芽生えが伸び悩んでいる。このまま傍観すれば、伸び始めた心臓外科と友好の芽が立ち枯れてしまい、榊原教授はじめ多数の医師の努力が水泡に帰する恐れがある。以上のような理由から、本来国がおこなうべき事業でありますが、日本心臓血圧研究財団の寛大な援助をお願いする次第です。年間約30セット、輸送費などを含めておよそ1,000,000円。
                                     心研外科教授 今野 草二

これらの努力が功を奏したと思われる。インドネシア大学ではその後も心臓手術が続けられ、今日に至っている。今野先生は後にインドネシア大学を訪ね(図12)、そのときの印象を次のように語っている。

図12.インドネシアにて
図12.インドネシアにて

インドネシア大学の医学部はジャカルタの中でも大使館とか高級住宅の並んでいる美しいデポネゴロ通りに面して、広々とした敷地に古風な平屋の病棟や研究室が立ち並び日本の古い大学病院を思わせる気安さがある。ここは文字通り独立インドネシアの発祥地で、インドネシアのガンヂーと呼ばれたワヒディン博士もここの卒業生なら、最初の民族運動・ブディウトが結成されたのもこの医学校の片隅である。東京女子医大の心臓血圧研究所を模してインドネシア大学の医学部に心臓研究所(Lembaga Cardio-logi National)が設置されている。初代の所長は外科医のDr. Santosoで、運営方針について榊原仟教授から多くを教えられたそうである。現在は内科医のDr. Soekamanが所長をしている。所員には小児科医、放射線科医、麻酔科医もいるが各科の別け隔てはなく、『心臓病に悩む患者を救う』という大きな目的に向かって完全なチームワークが組まれている。医師はおおむね英語を話すが、議論が白熱してくるとオランダ語をしゃべるので言葉には苦労した。

手術室は非常に清潔で、器具の手入れもゆきとどいている。すべて6年前に海外技術協力団(OTCA)の援助で贈られた日本製の器械であるが、故障もなく活用されている。現在までにファロ-四徴症根治術、弁置換術などを含めて約50例の手術がおこなわれ、文字通り東南アジアの中心となりつつある。多くの紐つき経済援助が問題を起こしている中で医療援助だけはどこでも100%の歓迎を受けている。しかしこれには骨身を惜しまない、医師のアフタケアが必要のようである。医療器具だけ供与し、あとは自力で維持しなさい、という形の援助はほとんど失敗している。東南アジアの現状は器具だけ援助して独立できる水準にはまだ達していないように思われる。金よりも人、設備よりも人材の原則はここでも通用する。ヒッチハイク的なうわついた心構えではなく、現地の医師と苦楽を共にし、徹夜で患者の治療にあたるような医師の派遣が切望されている。

出発点に立って

還暦を機に榊原先生は外科講座の主任教授を辞し、心研所長と大学の仕事に専念することになった。そして1971年6月、今野先生が外科の主任教授に就任した。そのときの挨拶は次の通りである。

私は現在38才です。くしくも榊原教授が単身、女子医大へ赴任されたのも38才の時だそうです。その頃のようすをうかがいますと、眉目秀麗、痩身の青年医師で、たちまち全学生の注目の的となられたそうであります。この辺までは私もまんざら似てなくもないと思っていますが‥…。
闘志満々、やる気十分であるが、ややしょったところのあるこの二人をくらべてみますと、残念ながら、その能力と器の広さについては雲泥の差が見られるようであります。しかし私の立たされたスタート台はきわめて恵まれた環境にありますので、才能の格差は相当埋め合わされた勘定になります。

御存知のように20年余り昔の女子医大は左翼運動にゆすぶられて倒壊寸前といったところまできていたそうです。外科の医局員は一人、実験道具といっては試験管が3本あるきり、血圧計さえ内科へ借りに走らなければならないような状態だったそうです。ここから出発された榊原先生は文字通り臥薪嘗胆、八面六臂の活躍をされ、今日の三百床近い大病院と10指に余る関連病院と、さらに世界にも類のないような研究室を築きあげられたのです。

さて、このように恵まれた出発点に立った私が榊原先生と同じエネルギー量の仕事をこれから20年間に遂行するとなると、少なくとも現在ある10倍の心研と関連病院を充実しなければならないことになります。しかし心臓外科という特殊性を考えるとき、数と量の拡大には、おのずと物理的な限界があるものと思われますので、私としては質の向上に全力を傾けたいと考えております。私の時代には無理としても次の時代からはノーベル賞の授賞者が続出するような教育をしてゆきたいというのが私の夢であります。

クローニンの〝城砦″

今野先生が主任教授になった翌年1972年の入局面接試験で、ある医師は今野先生から次のような質問を受けた。

今野先生の質問は、君の履歴書を見ると趣味のところはスポーツばかり書いてあるが、スポーツ以外の趣味はないのかねでした。私は内心しまったと思いながら、すかさず読書と音楽鑑賞ですと答えた。その先生は笑い乍ら、それではクローニンの城砦を読んだ事がありますかと聞かれ、私は即座に題名は知っていますが読んでいませんと答えました。心の中では、しまったソルジェニーツインのガン病棟だったら最近読んでいたのにと思いました。

今野先生は別のところで、クローニンの〝城砦″に触れながら次のように書いている。

『誤り』一九二九年、当時二十五才の青年外科医Werner Forssmannは自分の左肘静脈を切開し、ここから尿管カテーテルを挿入し、血流に沿ってどんどん進め、遂に右心室まで到達せしめた。このとき、胸部にかすかな灼熱感を覚えたが、きわめて元気で、心臓に管を入れたまま廊下を渡り階段をおりて、レントゲン室まで写真を撮りにいった。もちろん世界ではじめての試みであり、病院全体が自殺行為にひとしいとして反対した冒険を、看護婦相手に、鏡をみながら、すべて独力でやってのけたというのだから、その勇気には頭がさがる。この研究は医学に新しい分野を開き、近代心臓病学の基礎を築くことになり、一九五六年度のノーベル賞が与えられている。

このように循環器の分野ではもっとも有名な貢献者であるが、どうしたことか彼の名前が、どの教科書を見てもForssmanとなっている。調べてみると、原因はBenattが心臓カテーテルの沿革について書いた短報で、これをZimmermanが引用して有名な教科書にのせたので、世界中に広がってしまったようである。日本も例によって右へ習えで、私の「心臓カテーテル法」の読者から毎月のようにForssmannの綴りがまちがっているのではないかという投書が送られてくる。なかには、創始者の名前をまちがえるようでは心臓カテーテル法の著者として恥ずかしくないかというお叱りまで受けることがあるが、その度毎に相手のプライドを傷つけないよう、日本では入手困難になったForssmannの原著のコピーを御送りすることにしている。

どんな誤りでも、いったん教科書にのってしまうと、次から次へと無批判に引用され、たちまち世界中に広まり、これを訂正するのはなみたいていのことではない。動脈瘤の発見者はアンブロワズ・パレであるとされていた頃、ラテン語の原著をよむことにより、すでに十三世紀も前にケルススがくわしく報告していることがわかり、この誤りを苦労して訂正するという話がクローニンの「城砦」に出てくるが、このような話は稀ではない。教科書を書く者として襟を正すと同時に、責任の重大さをひしひしと感じる。

何事についてもとことん調べないと気が済まない今野先生である。クローニンの「城砦」を読んで、主人公のマンスンの頑固で、どこまでも探求していくスコットランド人魂に共感を覚えたのではなかろうか。入局面接試験のとき若い医師が趣味は「読書」といったので、思わずこんな質問したのかもしれない。

水泳

夏のある日、手術後急に今野先生の姿が見えなくなった。どこに行ったのかと思っていたら、しばらくして帰って来た。同僚の平塚博男氏が、「こんちゃんどこに行っていたの?」と訊ねると、先生は一言「代々木プール」と言って、自室に入ってしまった。当時先生は、手術後に代々木プールに行き、飛び込み台の最上段から高飛び込みの練習をしていた。内科の廣澤弘七郎教授は今野先生の葬儀で、ダイビングの終了証を見せられてあきれたと述べている。1968年7月21日、東京女子医大の医局対抗水泳大会が千駄ヶ谷のプールで行われた。初め消化器病センターが優勢だった。しかし最後のリレーで平塚氏、廣澤教授らが泳ぎ継ぎ、最終泳者の今野先生が快泳して大逆転、心研が優勝した。応援に来ていた中山恒明教授がプールサイドで大変口惜しがっていたのを今でも思い出す。

スキー

1971年の冬、若手の医局員がそろって、苗場スキー場へ行った。今野先生も一緒だった。当時心研の医局員には上級スキーヤーが多く、毎年、妙高高原燕温泉スキー場で診療所を開設していた。苗場スキー場に着くと、いきなり全員で上級者コースから降りることになった。私は大丈夫かなと思っていた。ところが案に相違して、今野先生はすいすいと滑っていった。ターンも上手で、スムーズに曲がって降りて行った。昼休み、ロッジの前に立てかけてあったそのスキー板を見て驚いた。何と肩の高さほどの短いものであった。当時スキーの板は、立ったまま手を上にあげて、手首位の長さが良いとされていた。しかし長い板は初心者にはコントロールが難しい。今野先生はそうしたことを十分に研究していたのであろう。それに皆の前では常にかっこ良く見せたがる性格なので、恐らく燕温泉スキー場で密かに練習していたに違いない。すいすいと滑って行く先生のうしろ姿に改めて、人目に付かないところでコツコツと努力する〝天才今野″の片鱗を見た思いがした。

石鹸のお菓子

そんな今野先生も女医さんたちに一杯食わされたことがあった。これは医局で内科の女医さんから聞いた話なので、真偽のほどは定かでない。

酒をほとんど飲まず、甘いものが大好きな今野先生は、医局にお菓子が差し入れられたりすると、どこに隠してもそれを目敏く見つけて、こっそり自分の部屋に持って行くことがあったという。そのため特に女性医局員たちは、そんな今野先生に対して、何時かひと泡吹かせてやりたいと思うようになったとのことである。当時、イチゴやオレンジなどをかたどり、表面に砂糖をまぶした色とりどりの、いかにも美味しそうなゼリーのお菓子のような石鹸が売られていた。ある女医さんがこれを買って来て、医局の棚の隅に隠しておいた。誰もいなくなった医局に現れた今野先生は、例のように素早くそれを見つけて、そっと自分の部屋に持って行った。

その日の夕方、医局で女医さんたちが数人、ワイワイ話ながら本物のゼリーのお菓子を食べていた。そこへ今野先生が現れた。それを見てすかさず女医さんたちが、「アーラ今野先生お気の毒様!先生の分はありませんのよ」と言った。すると先生は「ああいいよ」と言って、自分の部屋から例のお菓子の包を持って来て、皆の前でやおら包を開け、そのうちの一つをパクリと口に入れた。女医さんたちは「やったー」と言って拍手大喝采。さすが女子医大、女医さん達の方が一枚上手であった。カッコイイ今野先生も、このときばかりは泡を食ったとのことであった。

skin-to-skin 30分

ある日今野先生が執刀し、入局1年目の私が第一助手で、僧帽弁狭窄の非直視下交連切開術をやることになった。手術の前に今野先生が言った。「skin-to-skin 30分!」麻酔がかかり、患者さんを右側臥位にして手術の準備が終わると、先生はメスを持って患者さんの左胸を一気に斜めに切開した。手早く止血した上で心膜を切開し、心臓に到達した。左心耳の先端をつまみ、ハサミでそれをチョンと切り落とし、血液をほとばしらせてから、心耳の根元を鉗子で挟んだ。そこにタバコ縫合をかけ糸をルメルに通したのち、ゴム手袋の先端を切った右人差し指を左心耳内に挿入した。指で僧帽弁の位置と狭窄の程度、逆流の有無を確かめて、左手に榊原切開刀を持ち、右手のゴム手袋の隙間からその先端を左心耳内に滑り込ませた。次の瞬間、パチンという音と共に狭窄した僧帽弁口を切開刀で拡大した。僧帽弁の開き具合と逆流がないことを確かめ、右人差し指を抜き、私にも指を入れさせて僧帽弁の状態を確かめさせた。左心房を二重に結紮して、心嚢ドレーンを挿入し、心膜を閉鎖。左胸腔にもドレーンを入れて、再度止血操作をしたのち、閉胸した。最後の皮膚の縫合を終えたのが手術開始から30分後のことであった。

アイディア・ノート

図13.アイディアノートより
図13.アイディアノートより

私の手元に一冊のノートがある。何の変哲もない古ぼけた大学ノートである。その中には今野先生が1962年から数年間に書いた驚くようなアイディアが、美しい線画で描かれている(図13)。今野先生はアイディアが浮かぶとすぐにこうしたノートに書いて、それらを次々に実現していった。ある日、私が手術前の手洗いをしていると、そこに榊原教授が入ってこられた。ちょうどそのとき向かい側の手術室のドアが開き、中で今野先生が後ろ手に何か針金のようなものを持って、新井達太教授の弁置換手術を熱心に覗いているのが見えた。それを眺めて榊原教授は、さも愉快そうに、「今野君がまた何か考えているようだね」とつぶやきながら、手洗いを済ませて出ていかれた。その針金はもしかするとその頃、今野先生が盛んに実験を繰り返していた、冠動脈を作製する新しいアイディアの試作品だったかもしれない。

 

実家への手紙

今野先生は短期間に世界的に評価される研究をいくつも成し遂げた。先生は普段、そうした成果を人前で自慢することはなかった。唯一の例外が、実家に保管されていた家族宛ての手紙にあった。原稿用紙2枚に丁寧に書かれたその手紙には、家族に自分の仕事を誇らしげに伝える、今野先生の素直な気持ちが綴られていた。

僕にとっては入局して最初に手がけたValsalva洞動脈瘤に関する研究が最も得意の作です。これはAmerican Heart Journalにも載り、今では世界中の教科書に僕の分類法が採用されています。又Encyclopedia Medicaにも僕の名が載っています。
最近の仕事は冠不全の外科療法に関するもので、特殊なドリルを使い、きわめて簡単に新しい人工冠動脈を作り、狭心症や心筋梗塞を治療しようというものです。動物実験では非常に良い結果がでています。これが臨床例にどんどん使えるようになれば、画期的な手術法となります。毎朝結果を見に実験室へ行くのが楽しみです。同封の写真は人工冠動脈を作った犬の造影写真です。矢印が新しく作った人工冠血管です。この犬はその後、既存の冠動脈を2本とも結紮しましたが、元気に生存しております。今度ワシントンで発表するのはこの研究についてです。

家のこと時々新聞広告を見ておりますが、最低500万円はするようです。研究室に残っている連中は、みんな家付き娘をもらったり、親の援助でゆうゆうと研究生活を楽しんでいるので、借金をして家を建てたというような参考になる話は聞けません。時間に余裕を持ち、ゆうゆうとやっている恵まれた連中を相手に、大きなハンディキャップを背負いながら、より良い仕事を遂行することにひそかな誇りを持っておりましたが、この頃は体力的に限界を覚えるようになりました。昼間は講義や診療に追われ、夕方から研究室でがんばり、ぐったり疲れて帰り、ようやく布団が温まりかけた寝入りばな、やれ往診だやれ救急手術だとたたき起こされる辛さは、当事者でないとわからないものでしょう。何とか夜間くらいは静かに勉強のできる身分になりたいものと、無駄に宝くじを買って夢をつないでいるのが現況です。

ある父親の手記

今村栄三郎氏を班長とする生体弁研究班では、1968年から人工血管にグルタール・アルデヒドで処理した豚の大動脈弁を挿入した〝弁付き人工血管″の研究をしていた。1973年7月のある日、雅彦君という男の子の手術が計画された。雅彦君は完全大血管転換に心室中隔欠損と肺動脈狭窄が加わった、当時としては大変重い病気で、その手術に弁付き人工血管が使われることになった。執刀は今野先生で、今村氏が立ち会い、私はICUで待機していた。だが朝始まった手術が夕方になっても終わらなかった。

雅彦君の父、敏彦氏はその日の様子について、次のような回想記を私に送って下さった。敏彦氏にお許しをいただいて、その一部を掲載する。

それまで降り続いていた雨が又一層激しくなって、病院の建物を叩いていた。そして何十人もの人が殆ど何も語らず、刻一刻と時の過ぎて行くのに耐えていた。その時、手術室のドアが突然半開きになって、奥から「採血が可能な方はおりませんか……?」そしてやや時を置いて、また『採血が可能な方はおりませんか?』悲痛とも思える看護婦さんの叫び声であった。
当日は我が子、雅彦の根治手術の日であった。献血者には事前に血液検査を受けて頂き、手術当日の朝(昭和48年7月5日、午前9時)には20人もの方々が採血を終えていたのだが、その後の手術の経過を心配して、大半の方が夜になっても居残ってくれていたのだ。

まもなくそれまでチームで手術に携わっていた若い医師が顔を出して『今朝一度採血して下さった方でもいいんです……。』『予想以上に出血がひどく緊急に大量の輸血が必要になっています。只今執刀医の今野草二先生は、ご自分の血液を抜いて雅彦君に輸血をしてこの場を凌いでおりますが、まだまだ血が足りないのです。もっと治療に血液が必要な事態なのですが……!』
悲痛な叫び声であった。控室になっていた待合室は騒然となった。その後の詳細は当事者である私にも細かい記憶は無い。時計の針は(午後)8時を廻り、朝の執刀開始から既に13時間以上が経っていた。

一方これらの動きとは別に私の知らない事が粛然と進められていた。雅彦と同室の二人の子供の父親、YGさんとYMさんが東京女子医大病院からすぐ近くにある警視庁の第8・第9機動隊に駆け込んで、血液の要請をして呉れていたのだ。朝から降り続いた雨は夜になってさらに一層激しさを増し、辺りは一面水浸しになっていた。二人はまず守衛所に掛けこむと、『今一人の子供の命が危ないのです。どうか隊員さん達の血液を分けて下さい』と言った。その時の守衛の隊員さんは即座に『ここは公共の施設であり、一般の人からのそのような要請は受け入れられないのだよ……。』しかしYGさんとYMさんは粘った。『そこを何とかまげてお願い致します。』『今にも小さな子供の命が絶えようとしているのです。』

二人は再度深々と頭を下げた。守衛所の隊員さんは『あなたのお子さんなのですか?』『いいえ、同室の方のお子さんです。』YGさんは朝から引きも切らず猶も激しく降り続く雨の中で、突如、土下座をして、泥水に顔を付けながら懇願をして呉れたのだという。そしてそれにYMさんも倣った。そこでようやく守衛隊員は『一体その手術は何時から始まったのだい?』と言葉を返してくれた。『朝の9時からです』と答えると、時計を見て守衛さんは、『ええっ!もう13時間以上も経っているじゃないか!これは大変だ……!』『それではこれは私の独断で希望者だけという範囲で声を掛けてみる…』といってくれたそうである。

警視庁は細かい規則に縛られているが、一旦こうと決めたらやることが早い、夜食を終えてくつろいでいた隊員さん達は即座に献血希望を申し出て、50~60名ほどの人が名乗りを上げて呉れたという。YGさんとYMさんは、いく度もいく度も守衛所の隊員さんにお礼を言ってわずか10分程の道のりを又びしょ濡れの身体になって女子医大病院に引き返した。その時には既にサイレンを鳴らして2台の装甲車が到着していたという。

その後の私は混乱状態の中から少しずつ意識が戻ってきていて、採血待ちの若い隊員さんと階段に腰を下ろしながら、『ウチの子供の為に皆さん、おくつろぎのところ〝本当にありがとうございます″』と言うと、若い隊員は事も無げに、『なぁ~に、私の母も先月田舎で大きな手術をした折に周囲の人達から血液を分けて貰ったサ…』と静かに微笑みながら煙草に火を付けた。30分足らずで全員の採血が終わると、あっという間に引き際も鮮やかであった。

おかげさまで雅彦は無事に手術が成功して、それから10年間という尊い命の時間を授かることができたのです。手術開始から約16時間も経った頃、執刀主治医の今野草二先生が手術室から献血者の前に出て来られ、深々と頭を下げて、『皆さん、夜遅くまで雅彦君の手術にご協力頂きまして誠に有難うございます。お蔭さまで只今のところ一番の難関を越えることが出来ました。後は縫合だけとなりましたので、私から皆様方に一言お礼を申し上げるべく出て参りました。』『こんなに多くの方々が集まって下さったということは、もしやラジオか何かマスコミに依頼を掛けたのですか…?』主だった私の友人達(IN君、SM君)等が電話のことを話すと、大きく頷いて、『医者だけではこのようなことを到底推し進めることは出来ません。改めて私からも皆様方へ御礼申し上げます。』

あっさりとこれだけのことをおっしゃると、くるりと向きを換え、また手術室へと戻って行った。今野先生は雅彦の為にご自分の血までも下さったという、左手には大きな絆創膏が張られていた(そして雅彦の手術は18時間もかかったのです)。この時ほど人の心の優しさと、多くの人が寄せて下さった勇気と恩情を身に沁みて感じたことはありませんでした。

今野先生の急逝

今野先生は1971年6月、榊原先生の後を継いで、若干38歳で心研外科の主任教授に就任した。卓抜な発想と、何でも自分一人でやりぬく強靭な精神力により、今野教授は若い医師たちの信望を一身に集めていた。手術成績は格段に向上し、国際的に評価される臨床的研究が多数行われ、発表された。榊原先生の後継者として今野教授の評価は高まり、東京女子医大心研外科の行く末は順風であるかに見えた。

ところが1976年43歳の春、今野先生はB型肝炎にかかって、1ヶ月余り心研に入院した。そしてその年の5月23日、帰らぬ人になってしまった。その死があまりに急だったので、私たち医局員には衝撃が大きすぎ、にわかにそれを受け入れることができなかった。

今野先生の死を家族以外で一番悲しんだのは、当時筑波大学の副学長をしていた恩師の榊原先生であった。そのころ先生自身も肺癌に侵されて、手術を受ける直前の状態であった。月桂寺で行われた大学葬に出席した榊原先生は、大きな咳をしながら、落胆しきった表情で弔辞を読み上げた。

今野草二君、君が私の弔辞を讀んでくれることがあっても、まさか私が君の弔辞を讀むことになろうとは夢にも思わないことでした。断腸の思いとは将にこのことです。
君が京都府立医大を出て東京女子医大心研外科に来られたのは昭和三十四年四月。その頃から君は几帳面な、一つ仕事を正確にこつこつやる性格の人でした。標本を徹底的に調べて、世界的に有名になったバルサルバ洞動脈瘤の仕事を報告されたのがその翌年の事ですから、如何に早い時期から立派な仕事を手掛けて居られたかが判ります。これも世界的に高く評價された心臓バイオプシーの仕事も昭和三十七年、即ち外科に来られて三年目には報告されて居ります。黙々として問題を根本から解こうとするのが君のやり方でした。先天性心疾患でも解剖を徹底的に研究し、臨床検査所見と丹念に照合して、術前診断を正確にし、それを基礎に手術方針を決定する。手術の結果を再検討して手術の補助手段を進歩させる。手術の手先の手段まで特に考案した器具を用いて練習し直すという徹底ぶりでした。

私が外科部長の職を退いた時、教授會が君を後任に選んだことを私は心から喜んだのであります。果たして君が就任後着々と手術成績は向上しました。世界に通用する立派な研究が次々に現れました。今野君、君とクリーブランドに行った時、エフラー教授が榊原は実によい後継者を得たもんだと喜んでくれ、私には秘密で君に世界的大教授になる道を教えるのだと、雪道へ君を引っぱり出して話をしていたのを思い出します。外国の諸学会に行くたびに心研の評價が益々高まり、今野はどうしているかと色々な人から聞かれることが多くなり、私も鼻高々でした。私は君の手によって心研が二回りも三回りも大きくなることを信じて、楽しみにして居りました。

然るにこの悲報です。私は目の前が真暗になったような気がしました。今まであれほど苦労して積み重ねてきた努力の成果をこれから収穫しようという時になって、どうしてこんなことが起こり得たのでしょうか。あれほど君と共に努力してきた教室の人達のなげき。君が愛して止まなかった夫人と可愛いお嬢様たちの悲しみを、どうして君は思って呉れなかったのでしょうか。あの日以来、夜中に目を醒ますことが多く、目を醒ますと君の死が本当だろうか、夢ならばさめてほしいと思っていました。

しかしいよいよお別れせねばならぬ時が来ました。悲しい極みです。すべては定めです。今更女々しく繰言を言うのは止めましょう。今野君、君が蒔いてくれた種は必ず花を咲かせるに違いありません。君が残された仕事は皆が力をあわせて成就させましょう。どうぞ心置きなく旅立って下さい。私も老いた身、間もなくあとを追うことでしょう。その時にはあの世で二人して、今一つ新しい心研を作ろうではありませんか。私はそれを楽しみにしています。その時までしばしのお別れです。では心安らかにお休みなさい。さようなら。
昭和五十一年六月三日       東京女子医大心臓血圧研究所 名誉所長 榊 原  仟

 
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第5章 今野草二先生の業績

Valsalva洞動脈瘤

1960年ころ東京女子医大心研に7人のValsalva洞動脈瘤の患者が入院し、そのうち3人に手術が行なわれた。今野先生は、Valsalva洞動脈瘤の解剖標本や手術所見、臨床経過を徹底的に調べ、同時に府立医大図書館卒業といわれた経歴を生かして、国内外の文献を1800年代まで遡って100余り集め、それらを精読した。そして1962年に榊原仟、今野草二の連名で、2つの英語論文をアメリカの医学雑誌に発表した。
入局後3年目の外科医が、これほど充実した内容の英語論文をほとんど独力で書き上げたこと自体、瞠目すべきことである。京都府立医大の同級生もこれには皆、驚いた。その一人松下光延氏は次のように語っている。

二年後東京で化学療法学会があった際、第二外科の渡部君と、一度東京女子医大の彼の研究室をたずねた。すでに彼はかの教室でも注目の存在だったらしく、当時論文らしいものを書いたことのなかった私は、彼がサインしてくれたバルサルバ洞動脈瘤に関する詳細な論文の印刷を手にして、驚嘆した次第であった。

この論文で今野先生は、Valsalva洞の局所解剖と動脈瘤の成り立ちおよびその形態学的特徴を詳しく解説した。まずValsalva洞を中心にして心臓を様々な方向に切開し、洞壁とそれに近接する心臓各部の関係を丹念に調べた。Valsalva洞は3つあるのに、先天性のValsalva洞動脈瘤は右冠動脈洞と無冠動脈洞からしか生じない。今野先生はその理由を、Abottらの「胎生期の心球中隔(bulbar septum)の不適切な融合によって生じた大動脈の脆弱部が高い大動脈圧によって拡張し右心系に押し出されため」とする説を根拠に説明した。心標本をよく見ると漏斗部中隔の上に胎生期の左右の心球中隔が融合したと思われる仮想線がある。今野先生は、この線上に右冠動脈弁の全てと無冠動脈弁の右半分の弁輪部がぴったり重なることを指摘した。もしこの仮想線上に先天的な脆弱性が生じれば、その部位が大動脈圧に押されて右心系に押し出され、Valsalva洞動脈瘤が生じると考えられる。

図14. 先天性Valsalva洞動脈瘤の分類
図14. 先天性Valsalva洞動脈瘤の分類

このように説明したあと今野先生は、先天性のValsalva洞動脈瘤を4つの型とその亜型に分類した(図14)。TypeⅠは、肺動脈弁のすぐ下に右冠動脈洞が膨隆したものである(心室中隔欠損が伴う場合はTypeⅠVSD)。次いで右室漏斗部中隔の中央に右冠動脈洞が膨隆したものをTypeⅡ(心室中隔欠損のあるものはTypeⅡVSD)とした。さらに膜性部中隔に右冠動脈洞が瘤化し、右心室側に膨隆したものをTypeⅢv、右心房側に瘤が生じたものをTypeⅢaとし、心室中隔欠損が伴う場合はそれぞれTypeⅢv.VSD、TypeⅢa.VSDとした。一方、無冠動脈洞の前方部に脆弱部分がある場合、瘤は右心房の三尖弁輪のすぐ上に膨隆する。これをTypeⅣとした。今野先生は100を超える論文に記載されたValsalva洞動脈瘤の形が、それぞれこの分類のどれに相当するかを調べ、自験例との相違を検討し、日本ではTypeⅠが多いことを指摘した。さらに今野先生は、Valsalva洞動脈瘤と大動脈弁逆流の関係を調べ、初期の段階で弁逆流が生じ、やがて動脈瘤が巨大化し、最終的に瘤が破裂すると考え、それを3つのstageに分類した(図15)。

今野先生はその後も研究を続け、1968年心室中隔欠損を伴う先天性Valsalva洞動脈瘤の論文を再度アメリカの医学雑誌に発表した。この論文では心研の手術例55例と解剖例15例を追加して、Ⅰ-VSD、Ⅱ-VSD、Ⅲ-VSD、Ⅳ-VSDの単純な4つの型に分類し直した。

図15.  Stage分類
図15. Stage分類

今野先生は大動脈弁閉鎖不全が生じる条件を、大動脈弁下に心室中隔欠損があって、しかもValsalva洞と弁輪部の組織に脆弱性がある場合と考えた。支持を失った組織は洞とが一塊となって心室中隔欠損に落ち込むため、Valsalva洞動脈瘤と大動脈閉鎖不全が同時に起きる。一方、たとえValsalva洞壁に脆弱があっても弁輪部がしっかり支えられていれば、大動脈弁が心室中隔欠損に落ち込むことはなく、Valsalva洞動脈瘤のみが生じると述べた。
こうした一連の研究によって、先天性Valsalva洞動脈瘤の病態が明らかにされ、外科の治療方針も明確になったことから、榊原とともに今野の名も世界に知れわたることになった。

今野のバイオトーム

 図16.バイオプシーの原理1〈今野先生の自筆図)
図16.バイオプシーの原理1〈今野先生の自筆図)

東京女子医大心研外科に入局して3年目、1962年ころ、今野先生は、先端に2つの椀型の小さなカッターを取り付けた特殊なカテーテルを開発した(図16、17)。そしてそれを末梢血管から心臓内に挿入して、心内膜と心筋の組織を採取する‶カーテル心内膜心筋生検法″を創始した。

高尾篤良先生によると、当時今野先生は心筋の病気と思われる10代後半の女性を受持った。榊原教授がこの患者の臨床病理診断をするために、何か良いアイディアはないかと質問したのに対して今野先生は、心臓カテーテル法のように血管から心臓に管を入れて、うまく組織が取れないか考えていると答えた。そのとき外科の牛田昇氏が、耳鼻科で使っているバイオトームを工夫してカテーテルの先端に付ければ、うまくいくのではないかと言ったという。高尾先生は当時心研外科(小児科でないことに注目)に在籍していたので、この話には信憑性がある。今野先生はさっそく実行に移し、トノクラ医科工業(現(株)テクノウッド)の殿倉喜八郎社長にカテーテル式バイオトームの制作を依頼した。そして犬で実験を重ねたうえで人に応用し、その結果を国内の英文誌に発表した。

この論文は当初あまり注目されなかった。そこで翌年の1963年、同様の論文をアメリカの医学雑誌に投稿した。するとその反響は国内外に広がり、特に心内膜炎が多発していたアフリカの人たちの強い関心を呼んだ。今野先生はウガンダやメキシコなどから招待されて、講演や技術指導に出かけた。

 
図17.バイオトームを持つ今野先生
図17.バイオトームを持つ今野先生

榊原記念病院の図書室にある〝今野の棚″に、「1962.メキシコ」と表書きされた口頭発表用の原稿が残されている。これは恐らく、そのころMexican Academic Society of Traumata(メキシコ外傷学会)で今野先生が講演した際の原稿の下書きではないかと思われる。この原稿は、最初に国内の英文誌に発表したものとほとんど同じ内容なので、多分それを講演用に書き換えたものだろうと推定される。

同じ内容の日本語の口演原稿も残されているので、こちらの一部を紹介する。

Endomyocardial Biopsy   榊原仟、今野草二
心筋繊維症及び類似疾患の臨床的な研究は主として心電図、心音図、心臓カテーテル検査などを手掛かりとして進められてきましたが、いずれも間接的な機能検査法であり、心筋繊維症の診断及び病因解明のための具体的な回答を与えてはくれません。どうしても、病気の早い時期に心筋を採取して研究することが必要であります。このため手軽に実施できる安全な心筋の生検法が切望されるようになりました。
スライド1. 1962年私たちは、特殊な鉗子を心臓カテーテルに装着した心筋生検用のカテーテルを作り、これを末梢血管から挿入し、レ線透視をしながら心腔内へ誘導し、心臓の内側から心内膜と心筋の一部を切除してくる心腔内心筋生検法に成功いたしました。
スライド2. 心臓の内側から到達するので、経皮的心筋穿刺法の最大の障害になっていた穿孔、出血、冠血管損傷、心臓タンポナーデなどの心配は全くありません。
安全に必要な場所から必要な量だけ生検資料を採取できます。私達の発表後も心筋生検法についての多くの研究が報告されましたが、いずれも実験段階あるいは臨床テストの域を出ません。150例の臨床経験で安全性と確実性を証明され、非常に薄い心房壁の心筋でさえ安全に採取できるのは、私達の生検方法だけであります。現在、世界各地59ヶ所の病院や研究所で使用されております。心内膜及び心筋の生検法としては、一応確立された方法であると思っております。(後略)

今野のバイオトームが外国で高い関心を集めていたことについて、京都府立医大の同級生、岩島昭夫氏はクラス誌「青桐」で、次のように述べている。

私にとって思わぬ所で彼の素晴らしい業績を知らされることになりました。それは一九六六年の初秋、私がシカゴ大学のラビノウイツ教授の所に留学して間もないことのことでした。研究室に上るエレベーターの中で、突然ナイア講師(小児心臓病学を専攻し、心筋の生化学的研究をして居ました)から『コンノス・バイオプシイはその後どの様に発展しているのか』と質問されたのです。アメリカに来てまだ日も浅く、聞く方も話す方も英語に全く不慣れであった私には、それが今野君に関係のあることを意味していると気が付くには大分時間がかかりました。そして誘われるままに彼のオフィスに行き、話を聞かせてもらいました。

それによると今野君はアメリカでも一流の心臓学者がそろって居るといわれるシカゴ大学の研究グループの前で、既に彼が考案した独創的な心筋バイオプシィについて講演し、多大の感銘を与えたとのことでした。勿論ナイア博士はドクターコンノが私のクラスメートであることを知る筈はなく、日本の一少壮外科医の優れた仕事として私に尋ねたわけで、後で私達の関係を知って驚いて居ましたが、少なくとも私は当時既に国際的であった今野君の研究について外国ではじめて教えられることになり、自分の無知に誠に恥ずかしい思いをしました。しかし又同時にクラスメートの立派な成果を誇らしく感じ、留学したてで何となく心細い研究に対する私の情熱を大いに奮い立たせてくれたことに心の底から感謝しました。そして帰国後間もなく彼がその一連の仕事で朝日賞をうけたことを知った時、私にはそれが当然のことのように思えたものでした。

今野先生の筆跡で、「Prof.がAtheneへ持って行ったもの」と表書きされた原稿がある。英文は前のものに比べるとかなり洗練されているが、この原稿には欄外にたくさんの加筆が施されている。今野先生はこの原稿を大切に保存していた。そうしたことから、これは恐らく榊原教授が海外の学会で発表するために今野先生が準備し、さらに教授が手を加えた草稿ではないかと推測される。全体は長文なので、初めの部分だけを掲載する。なお原文で消去線が施されていたところは消去し、加筆された箇所は太字で挿入し下線を施した。

“ENDO-MYOCARDIAL BIOPSY   S. Konno
Remarkable progress has been made in the diagnosis of heart disease in recent years, yet there remain instances where accurate diagnosis of the disease is difficult prior to death. That is a group designated as primary myocardial diseases. This group of myocardial diseases, consists of, in addition to acute myocarditis, various forms of chronic myocardial diseases, such as endomyocardial fibrosis, idiopathic myocardial hypertrophy (that is probably healed myocarditis), myocardial sarcoidosis and similar lesions and primary tumors of the myocardium. In many of these cases, secondary myocardial and mural endocardial changes appear combined with the primary lesion.

Although better understanding of the clinical features has resulted in a higher incidence of clinical diagnosis, the exact nature of the myocardial disease is usually not ascertained prior to post-mortem study. A biopsy of the myocardium from various parts of the heart and careful histologic studies would be necessary for the better understanding of the pathogenesis of these lesions. Dr. Souter(Sutton:著者注) devised a needle biopsy technic for this purpose. He inserted a needle from the outside of the chest and punctured the heart to remove a small part of the myocardium. However, the myocardial tissue which can be obtained by his technic, is small in amount, and is limited in a very localized area of the heart and ordinarily does not contain endocardium. Moreover, as he himself described, it was not successful in fairly many percent of cases.
We have developed a new technique of myocardial biopsy, about which I would like to discuss here. By our method we can excise tissues from various part of the heart safely and securely. The tissue obtained contains both endocardium and myocardium and much larger in amount compared with that obtained from needle biopsy. We expect this procedure will contribute to the clarifying of the pathogenesis of so called primary myocardial diseases. The instrument consists of an ordinary intracardiac catheter and a cutting claw attached to the end of the catheter. It is so designed that after the catheter is inserted into a heart chamber through a blood vessel, the claw is opened and then closed to bite a small part of the heart tissue by pulling the handle at the proximal end of the catheter. The tissue excised is small, yet enough for histologic study and, always contains a portion of endocardium, which is most important for diagnosis.(後絡)”

今野のカテーテル式心内膜心筋生検法は国内でも広がり始めた。京都大学中央臨床検査室の河村慧四郎氏は、1966年、京都で開催された第6回電子顕微鏡のための国際会議で講演をした。その冒頭、河村氏はバイオトームを創作した榊原先生と今野先生へ謝辞を述べられた。

その後、大阪医科大学第3内科教授になられた河村氏は、1992年9月4日、医学雑誌「心臓」に、「心内膜心筋生検法の開発30周年を迎えて」と題した巻頭言を載せた。その中で心筋バイオトームの製作を担当したトノクラ医科工業(現(株)テクノウッド)社長の殿倉喜八郎氏にについて、その仕事ぶりを職人気質であると評した。
河村教授からこの巻頭言のコピーを送られた殿倉社長は、今野先生の奥様に次のような手紙を送った。

今野瑤子様   平成4(1992)年12月3日
拝啓 大変御無沙汰致して居ります。
さて今度大阪医科大学第3内科教授の河村慧四郎先生が「心内膜心筋生検法の開発30周年を迎えて」と題して『心臓』と言う雑誌に投稿された文献をお送りいただきました。今野先生の開発した心筋バイオプシー法が現在心臓病の治療に如何に貢献しているかをあらためて書きつくされている様な文献ですので、奥様から先生の仏前に御報告していただけたらと思いましてお送りいたします。

河村先生から先般お電話で今度「心内膜心筋生検法」について書く事になった。ついては今野先生が私に生検鉗子の製作をたのんだ当時の事を聞きたいとの事で、私のおぼえている事をお話し致しました。当時としては心臓の中に血管を通して刃物を入れて肉片をかぢってくるなんて、だれも考えたことがなかった時代でした。先生は私に其の必要性をくわしく説明され又安全性も良く説明して下さいました。なにしろ米粒の1/2位の小さな鉗子状のもので、しかも1m位手前で操作しなければならないので、なんとか使える様になる迄は大変でした。

やっと組み立て、持っていくと、臨床に使用しない内に壊れてしまったり、刃がくいちがって切れなかったり色々ありました。私も何度もあきらめ様と思ったことがありましたが、先生はねばり強く、一緒になって材料の事なぞ考えて下さいました。私も此れを實際に造る職人とのこんくらべの毎日でした。こんな事を河村先生にお話し致しましたので、私の事を職人気質と書かれたのでせう。

あれから30年たった今日、他人がこうして発表されたと言う事は、この職にあるものとして名誉な事であると深く感謝致して居ります。昨今はアメリカ製のジスポーザブルの生検鉗子が出回って居ります。今野先生の手作り生検鉗子も数は少なくなりましたが出て居ります。
では向寒のおり、お体を大切にしてください。                          敬具                                           殿倉 喜八郎

今野先生は生検した心筋を電子顕微鏡で調べるため、京都大学電子顕微鏡室や東京大学伝染病研究所病理教室の協力を得ていたが、心研内でも電子顕微鏡的検査ができるようにしたいと考えて、1966年頃、心研所長の榊原教授に要望書を提出した。その下書きと思われる手書きの原稿が残されている。

心筋生検の電子顕微鏡による研究  今野 草二
すでに開発され臨床に使われている診断技術を縦横に駆使しても確定診断のつけられない疾患群がある。原発性心筋疾患と呼ばれている疾病群がそれである。臨床家にとっては耳新しい病名であるが、決して稀な病気ではない。診断がつかないため「心臓まひ」とか、「ポックリ病」や「心筋障害」、「心臓肥大」とかいった仮の病名で片付けられていたにすぎない。

心筋生検の技術を教えるためアフリカ、中近東の病院を訪れたが、外来患者の16%、入院している心臓病患者の50%が当疾患に蝕まれているような不幸な民族もある。原発性心筋疾患の究明は、今日心臓病学に課せられたもっとも重要な問題である。しかし当疾患に関するかぎり、間接的な機能検査を主とした従来の診断法及び研究法は行き詰まっており、どうしても患者の心筋組織を得て組織学的、組織化学的及びバイラス(virus)学的分析をおこなわなければならない。このような研究のため安全で確実な心筋生検法が切望されるようになり、世界中の学者が争って心筋生検法の開発に努力した。幸い当研究所で開発した「心内膜心筋生検法」は全く安全で、手軽におこなえるので、理想的な心筋生検法として世界に認められるようになった。現在18ヶ国に輸出され、59ヶ所の病院で使用されている。

当研究所では過去4年にわたり、200例近い患者の心筋生検を行なひ(原文のまま)、主として光学顕微鏡による研究をすすめてきた。これまでの研究結果、原発性心筋疾患の一部はバイラスによって惹起されるという疑いが濃厚になった。今後研究を進めるに当たり、蛍光抗体法によるバイラス学的分析と電子顕微鏡による研究が必要である。
現在京都大学電子顕微鏡室及び東京大学伝染病研究所病理教室の協力を得て、地理的不自由さをしのびながら研究しているが。既に世界的レベルの結果がえられつつある。当研究所に電子顕微鏡の設備を備えることは緊急の話題でありそれから期待される成果は無限である。
 電子顕微鏡  ひたちHU-11B  7,400,000円
 真空蒸着装置           350,000
 ミクロトーム           1,700,000
 工事費             2,100,000
  計             11,550,000 円
 

今野のカテーテル式心筋生検法はその後、病理学出身の内科医、関口守衛氏に引き継がれた。関口氏は、新規に心研に導入された電子顕微鏡を用いて研究を続け、心筋症の診断分野で世界的な評価を受けるようになった。今野先生はこの発明により関口氏とともに,1969年8月6日、朝日学術奨励賞を受賞した。さらに1970年代にはアメリカのスタンフォード大学で、心臓移植後の拒絶反応を診断する方法としてカテーテル式心筋生検法が用いられるようになり、心筋生検法は世界中に広まっていった。

今野手術

狭い大動脈弁輪を広げて人工弁を入れる弁輪拡大術はいくつか試みられている。今野先生は、より大きく大動脈弁輪を拡大できる方法はないものか考えた。そして現在、世界中の心臓外科医から〝Konno Procedure″といわれている、右室や心室中隔を含めてより大きく拡大する術式を考案した(図18-1~4)。1975年、今野先生が東京女子医大心研外科の主任教授に就任して4年目のことである。

 図18-1,2.今野手術
図18-1,2.今野手術

手術を受けたのは生後3か月の乳児で、大動脈弁下と筋性中隔に2つの心室中隔欠損があり、動脈管開存を伴い、右左短絡もある厳しい肺高血圧の患者であった。さらに大動脈弁には狭窄と強い逆流が見られた。手術は今野教授が執刀し、私も第2助手に加わった。それはまさに驚愕の手術であった。

乳児は麻酔され、氷で体温を32度まで冷やされた。胸の真ん中が縦に開かれ、動脈管が糸で結紮された。人工心肺が始まり、体温は更に冷やされ、18度になったところで全身循環が停止された。教授は右の心室の流出路をメスでスーッと縦に切った。その切り口から、右室の漏斗部に大きな心室中隔欠損が見え、そこから大動脈弁が半分ほど覗いていた。心尖部に近い筋性中隔にも別の大きな欠損があり、ダクロン布が充てられそれは閉じられた。右室流出路の心室中隔欠損から見えた大動脈弁は、縮れて固まり数珠玉のようになっていた。これを治すのは大動脈弁置換しかないと思われた。しかし大動脈弁輪の直径は11mmしかなかった。これでは一番小さな人工弁でも入れることはできない。

私はそのとき、教授はどうするのかなと思った。
次の瞬間、今野先生は上行大動脈の正面を縦に開き、そのまま右冠状動脈の左側をValsalva洞に向けて切った。やがて切開は右心室流出路に達したが、今野は構わずその方向に切開を伸ばしていった。そこには、今まで病理標本でしか見たことのない心臓の切り開かれた光景が広がっていた。

今野先生はテフロンパッチを木の葉形に縫い合わせた布に、あらかじめ切り取っておいた心膜をかぶせて、その尖端を切り開いた心室中隔の一番奥に縫い付け始めた。そしてそれを慎重に上方に縫い進めて、大動脈弁輪までパッチをあてた。私にも、そのあたりから何となく教授の意図が理解できるようになった。そうか、先生は心室中隔側から大動脈弁綸をパッチで拡大をしているのだ。

次に大動脈弁を取り去り、元々の大動脈弁輪と縫い付けたパッチの一番広い部分に小ぶりの人工弁(ビジョルク・シャイリー弁19mm AB)を縫い付けた。それから木の葉型の一方の片を上行大動脈に、最後にもう一方の片を右室流出路に縫い付けた。まるで開かれたミニチュアカーのボンネットの中で、解体された小さなエンジンが再度組み立てられるように、切り
開かれた心臓の中心部が元の形に戻っていった。大動脈遮断が解除される
と、心臓はゆっくりと動き出した。私は思わずため息をついた。まさに奇
想天外な手術だ。

図18-3,4.今野手術(続き)
図18-3,4.今野手術(続き)

後で分かったことだが、東京女子医大でこの手術をする前に今野先生は、甲府の山梨県立中央病院で同じ手術をしていた。それは23歳の女性で、狭い弁輪を有する大動脈弁狭窄であった。弁輪径は13㎜であったが、今野の弁輪拡大術で21㎜のビジョルク・シャイリ―弁を入れることができた。東京女子医大の乳児例は残念ながら2日目に死亡したが、甲府の成人例は幸いにも生存し、1年後に再検査を受けた。当時、山梨県立中央病院で心臓血管外科医長をしていた飯田良直氏は、同院創立50周年記念誌に次のように書いておられる。

ちょうどこの時、心臓血圧研究所から出張中の医師から今野教授がこの疾患のために新しい弁輪拡張術を考案し動物実験で成功していると聞いたので、今野先生に相談したところ、手術に来てくれることになった。今野先生は入局が1年だけ先輩なのでテニスをするなど親交があったが、このころは主任教授になっていて、堂々と天下に名が知られた日本心臓血圧研究所を主宰し実績を挙げていた。学会でも爽やかで、ユニークな発言をするので私は畏敬の念を持っていたが、今野先生は気さくに接してくれた。
いよいよ手術日のことになるが、手術前の手洗いの時に『慶應の相馬先生が最近同じような方法で手術をしたが患者が助からなかった。この手術が成功すれば世界第1例目になる』と言われた。だが緊張している様子は見られなくメスさばきも軽やかに手術を進め、再拍動後の出血も少なく無事に終えられた。

1989年9月8~9日の2日間、私はメリーランド州バルチモアにいた。Society of Thoracic Surgeonsの年次総会前のセミナーCurrent Controversies and Techniques in Congenital Heart Surgeryに参加したのである。セミナー2日目の朝、‟The Small Aortic Root”の主題で6人の演者が講演と討論を行った。その中で、アラバマ州立大学のA. D. Pacifico教授が‟Konno & Rastan Procedures - Indication, Technique, Follow up”の講演を行なった。早朝7時の始まりで私は寝ぼけ眼で参加していたが、この演題の時だけは目がぱっちりと開き、まるで日本語で聴いているように、はっきりと内容を理解することができた。多くの発表の中で唯一日本人の名を冠した手術名が出てきたこと、それがわが師の今野先生であったことに感激し、同時に誇りを覚えた。

今野手術はその後、肺動脈弁を切り取ってそれを大動脈弁に挿入し、取り去った肺動脈弁には生体弁を入れる〝Ross手術″と組み合わされて、主に乳幼児の大動脈弁置換を目的とした‟Ross-Konno procedure”に発展した。残念ながら今野先生自身は、自らが考案した手術がこのように展開していくのを見ることはなかった。しかしKonno手術自体は時代を超え今もなお、小児心臓外科分野の重要な術式として引き継がれている。

冠動脈の新しい手術

図19 心筋内冠血管作製術
図19 心筋内冠血管作製術

1967年頃心筋虚血に行われていた外科治療は、血液のほとばしる内胸動脈を心筋内に直接植え込むVineberg手術であった。これに対して今野先生は、大動脈から直接心筋に血液を送る大胆な方法を考案した。‶心筋内冠血管作製術″と名づけられたその方法は、図19に示したように、右の頸動脈から真直ぐ右冠状動脈Valsalva洞の底まで細い金属棒を挿入し、それを介して金属線を心室中隔に通して、心室中隔、さらに左室壁にも新しい血流路を作るという奇抜なものであった。犬で実験を繰り返し、1968年には心研が発行している英文誌Bulletin of Heart Institute Japanなどに発表した。実験は成功し、人への応用を目指していたが、結局この方法は実用化されなかった。しかしその奇想天外なアイディアを実験で確かめたことこそ、今野先生の真骨頂であったといえる。

図説「外来の外科」

図20.図説外来の外科(心肺蘇生術)
図20.図説外来の外科(心肺蘇生術)

こうした研究の合間に、今野先生はこつこつとイラストを描いていた。その集大成とも言えるのが今野草二著「外来の外科」である。その中には、全身の疾患を外来で治療するためのイラストが多数収められており、裏表紙には心蘇生法などの細密な絵が掲載されている(図20)。本書を出版したとき今野先生が校正用として使用した本がある。その挿絵や文章にはあちこちに赤筆で書き込みがあり、それらが十分に下調べをした上に、さらに綿密に修正を加えられ描かれたことが分かる。医師・イラストレーターとしての今野先生の渾身の一冊と言える。
この本に対しては当時日本の外科学を代表する大学教授たちから好意的な書評が寄せられ、また母校、京都府立医科大学の諸富武文教授も後輩のために、敬愛の念のこもった書評を雑誌に掲載された。

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第6章 心臓外科の発展に二人が果たした役割

榊原先生の果たした役割

岡山で病院を開業していた榊原亨博士は、1939~1943年ごろ、心臓鏡という新しい診断・治療機器を創作し、それを基に実験的な研究を繰り返し、臨床的応用の道を探っていた。しかしこれら先駆的な研究の成果は、残念ながら太平洋戦争ですべて失われ、日本の心臓外科研究の芽は完全に遂へた。だがこの国に心臓外科の灯りを再度ともしたいという情熱まで消えたわけではなかった。戦後間もなく東京女子医専の外科教授になった榊原仟先生は、東京大学の塩田廣重名誉教授の言葉に触発されて、心臓外科の研究をする決意を固めた。そして兄亨博士の支援を受けながら、1951年5月5日、兄弟で我が国初の心臓血管外科手術、動脈管開存の結紮術を行った。榊原兄弟のこの手術が契機となって、東京大学、大阪大学初め、多くの大学病院で心臓手術が開始され、日本の心臓血管外科の扉は一気に開かれることになった。

しかし榊原先生は単に我が国の心臓手術の開扉に先駆けただけでなかった。先生が目指したのは、この国の心臓血管外科を自らの力で欧米のレベルまで引き上げ、なおかつそれを日本全国つづ浦々まで広めることであった。そしてそれを欧米の真似をするのではなく、自分たちの知恵と努力で成し遂げることであった。そのために榊原先生は、自ら未知の分野に果敢に切り込んで行くとともに、多くの若い研究者や臨床医とともに難題をひとつひとつ解決しながら、その経験を通して彼らを教育していった。榊原先生は初めての手術に次々と挑み、新しい診療器械を開発し、病院を建設した。さらに研究施設を作り、学内のみならず学外の研究者にもその門戸を開放した。そして自ら奔走して、獲得した研究費を惜しげもなく彼らに与え、心臓病の研究を振興した。すべては患者により良い医療を提供することが目的であった。

榊原先生は殆ど前のめりと言っていいほど、猛スピードで人生を駆け抜けた。そして最初の心臓手術をしてからわずか20数年の間に、日本の心臓血管外科を世界に通用するレベルまで引き上げ、それを国中に広げた。日本の“心臓外科の父”と言われる由縁である。

今野先生の果たした役割

今野先生は1959年春から榊原先生の下で心臓外科の研修を始めた。天性のひらめきと昼夜を分かたずこつこつと仕事を仕上げる能力は、榊原門下生の中でも際立っていた。今野先生は入局してすぐにValsalva洞動脈瘤の成り立ちを調べ、1962年にアメリカの医学雑誌に発表した。これを契機に榊原門下の若手医師らは競って、新しい研究を英文医学誌に発表するようになった。

カテーテル式心内膜心筋生検法
Valsalva洞動脈瘤の研究と並行して、1962年今野先生は特殊なバイオトームを製作し、カテーテル式心筋心内膜生検法を創始した。これによりそれまで未開の分野であった心筋、心内膜疾患の生前診断が可能になった。さらに1970年代スタンフォード大学において、カテーテル心筋生検を用いた移植心の拒絶反応の診断指針が行われ、心臓移植医療の推進にも貢献することになった。

心筋内冠血管作製術と名づけられた心筋に血流路を作る方法は、実用化こそされなかったが、そのアイディアの新規さと卓抜さは計り知れない。この術式は、その後に発展した冠動脈直達手術への礎になったといえる。

今野先生は教科書の執筆にも熱心に取り組んだ。1970年小柳仁氏とともに南江堂から「心臓カテーテル法」、1972年医学書院から「図説 外来の外科」など、オリジナリティに富んだ教科書を次々に出版した。どんな小さな問題点もとことん追求しないと済まないその探求心、ときに冷酷とも思える徹底した細密描写、これらの教科書にはそうした今野先生の才覚が余すことなく凝縮されている。若くしてこれほどまで完成度の高い本を自分たちの力だけで書いた、その能力には脱帽するしかない。今でも機会があったら若い医師にぜひ一読を薦めたい本である。

今野先生は入局後12年目の1971年6月に榊原教授の後任として、若干38歳で東京女子医大心研外科の主任教授になった。教授就任後今野先生は精力的に手術を行いながら、論文や教科書を執筆し、若い医局員の研究を指導した。1975年今野先生は、今日 “Konno procedure”と言われている手術を行った。心室中隔に深く切り込むこの術式は、世界中の心臓外科医に大きなインパクトを与えた。やがてKonno procedure は、自己肺動脈弁を大動脈弁に移植するRoss手術と組み合わされ、“Ross-Konno Procedure”に発展した。こうしてKonno procedureは現在でも、小児心臓外科の分野で定番の術式となっている。

今野先生は透徹した頭脳の持ち主にありがちな、とっつき難い冷たい印象はあったが、それは表面だけで、本人は常に周りに気を配る繊細な感覚とやさしい心の持ち主であった。今野先生は榊原教授が言い続けた、「人真似はしない、常に独自の工夫で世界と勝負する。」この言葉を門下生の中で誰よりも実践した。そして多くの研究業績を上げ、榊原教室の心臓研究のレベルを引き上げ、それを世界に知らしめた。残念ながら若くして他界したが、その輝かしい業績により未だに今野先生は、今日の心臓外科医たちに夢と希望を与える存在であり続けている。

榊原先生の先見性と開拓者精神、そして今野先生の天才的なひらめきと地道な研究の積み重ねがあったからこそ、それらを礎として、現在なお多くの心臓血管外科医がより高みを目ざして、決して平坦でない心臓血管外科の道を歩み続けているのである。

あとがきに代えて

1969年1月、私は榊原教授の直属班に配属された。初日、上司の今野先生から、「朝7時に病棟回診をするから出て来なさい」と言われた。そのころ私は千葉市に住んでいた。真冬の早朝、まだ暗いうちに家を出て、約1時間半かけて女子医大に通った。7時から病棟の回診と包帯交換、処方箋およびその日のオーダー出しとカルテの記載をした。さらにそのあと、手術日は手術の助手と術後管理、手術がない日は研究部の地下の実験室で今村班の実験を手伝い、夕方には2階の標本室に籠って心臓病の病理標本を調べた。夜は今野先生の部屋の明かりが消えるのを待ってから病院を後にした。家に着くのはたいてい午前0時を回っていた。私は妻に冗談で、「明けの明星を見ながら東京に行き、北斗七星を仰ぎながら帰宅する」といった。

1971年4月、榊原先生に代わって今野先生が心研外科の主任教授になった。1975年1月岐阜の出張先から帰局した私は、今野班に所属して〝Konno手術″に加わった。その後、私はICUに移動、榊原仟著「心臓外科学」の出版準備に没頭、9月にそれが出版され、初版本が今野先生から榊原先生に無事手渡された。
1976年の春、今野先生はB型肝炎に罹患し、約1月半ほど心研の個室に入院した。1976年5月23日、私は都内の病院へ心臓手術の手伝いに行った。その手術が終わりにさしかかったとき、心研の医局から電話がかかって来た。今野教授が亡くなったから直ぐに帰れという話であった。あまりの突然の知らせに私たちは言葉を失った。
葬儀は1976年6月3日、河田町の月桂寺で執り行われた。そこで今野先生の朋友、橋本明政氏が次のような弔辞を述べた。

今野草二君、君がもういなくなってしまったとはとても信じられない位だ。
思い出せば君との初めての出会いはもう二十四年も前になる。詰襟の服に大学帽をきちんとかぶって現れた君は、几帳面で繊細な秀才であった。それから一時別れたが、再び東京女子医大心研へ共に入局し、同じ師匠の下に多くの先輩、後輩と共に、実に十七年間も同じ心臓外科の道を歩んできた。その間君は良き友であり、良きライバルであった。初めての医局旅行で、勉強と貯金が趣味だと言った君の言葉は忘れ難いが、その言葉に表徴される如く、君の努力と合わせて入局間もなく君の天与の才が発揮され、幾多の世界的な業蹟が生まれた。

そして輝ける青春の一時期、君の結婚の決まる頃のことも私は憶えている。君の最愛の人と結ばれるようになった時の君の手ばなしの喜びようを。しかしながら、自らの余暇も極度に切りつめ、恐らくは家庭での最愛の人たちとのくつろぎさえも投げうって、心臓外科研究に一途に打ち込んでいた君の姿は、しばしば鬼気迫るものであった。君が心臓外科の主任教授に就任してからは、君は正に心研外科の大黒柱となり、医局員や病院内のみならず心研関連の人々からも頼られ慕われていた。学会でも優れた業績が認められ、正に順風満帆の航海の如くにみえた。君の医局での指導も新しいアイディアで外科修練をより容易に科学的にしようと努力し、若い医局員をひきつけた。
君との十七年間の医局生活の思い出は盡きない。何回かの医局旅行、そして昨年は多くの医局員とバリ島へも行ったが、これは君が最も楽しい思い出の一つと言っていたものだ。

今野君、君は君なりに多くの問題をかかえて悩み苦しんでいたのを知っている。しかし君は天才によくみられるワンマンさで、私共に相談してくれることがほとんどなかった。どうして悩みを打ちあけてくれなかったのか。君との思い出の中でこの事がくやまれてならない。今野君はどうしてこんなに若くして我々から去ってしまったのだ。多くの天才たちが若くして世を去ったからと言って、他人の真似をするような君ではなかったではないか。君は日の昇る朝が好きだった。君はよく朝のうたを歌っていたね。そして今、君の人生の真晝にさしかかり、君の世界が正に開けてきた時に、君は予期せぬ日食の如くに隠れてしまった。今はただ君の冥福を祈るのみ、安らかに眠り給え。

 

橋本 明政

(了)

2020年6月末日
龍野 勝彦

 

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