「これは、院長が千葉県循環器病センターに勤務していた約10年間の出来事を、記憶をたどりながら記したものです。
個人情報や県の重要情報には十分配慮致しましたが、実名や実際の顔写真が出てくることがあります。
多くの方々にはご了解をいただいておりますことをお断りしておきます。約1年半にわたり、少しずつ掲載いたしますので、どうぞお楽しみに。」
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「これは、院長が千葉県循環器病センターに勤務していた約10年間の出来事を、記憶をたどりながら記したものです。
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多くの方々にはご了解をいただいておりますことをお断りしておきます。約1年半にわたり、少しずつ掲載いたしますので、どうぞお楽しみに。」
私は1997年4月から2007年3月までの10年間、千葉県立鶴舞病院と千葉県循環器病センターに勤務した。この間、新センターの立ち上げに参加し、多くの貴重な経験をさせていだいた。鶴舞病院の中村常太郎院長とは、私が榊原記念病院で外科部長をしていたとき、日本胸部外科学会の指定施設協議会で初めてお会いした。中村先生はこの協議会が発足したときからの幹事であり、私も後になってこの会の幹事に加えていただいた。そうした縁から、私は協議会の席で、中村先生の隣に座って親しく話をする機会に恵まれた。中村先生は千葉大学医学部の私の10年先輩である。先生は頑強な体といかつい風貌、それに独特の辛口の語りで、向かうところ敵無しの快男児であった。しかしその外見や口調とは裏腹に、素顔は大変優しく、細やかな気遣いをする人であった。
数年後のある日、榊原記念病院で副院長として働いていた私に、中村先生から電話があった。「千葉県が新しい循環器病センターを鶴舞に作ることになった。ついては君にそのセンター長になってもらいたい」と先生は言った。そのころの私は、手術と病院管理に忙殺されていて、いずれは外に出るにしても今は病院から離れられないと中村先生に伝えた。
1996年の春、私はある国立医科大学の外科の教授選に立候補した。しかしその選挙はなかなか行なわれず、ついに年を越すことになった。1997年1月、中村先生から再び電話があった。先生は「循環器病センターは基礎工事が終った。どうだろうもう一度鶴舞に来ることを考えてくれないか」といった。このときも私は、残念ながら受けられないとお断りした。その数日後、千葉大学医学部の教授から次々と電話がかかってきて、この話を受けるよう説得された。そして1997年2月初め、千葉県衛生部長が私を訪ねてきて、知事に会って欲しいと言った。小船井良夫榊原記念病院長に相談すると院長は、「教授選の方を辞めよう」といって、自ら国立大学に断りの電話をした。こうして私の千葉県循環器病センターへの赴任が決まった。
私が千葉県の職員になると、中村先生は早速私を連れて、県立病院を初め、大学病院など、県内の主要病院を訪ね、病院長や主だった教授に紹介してくれた。特に医療界のドンといわれた旭中央病院の諸橋芳夫院長には、2回も面会させていただき、私が千葉県で働くのに支障のないよう取り図らってくれた。1998年2月、循環器病センターが発足すると、中村センター長は自室を2つに分けて、その一角を私に与えてくれた。そして僅か2ヶ月間、センター長を務めただけで3月31日、定年退職し、名誉センター長になった。
1997年4月1日、私は、千葉県衛生部の嘱託になった。嘱託の仕事は、月に1回、市原市鶴舞町にある千葉県循環器病センター設立準備室に行って、開院準備のための会議に参加することであった。循環器病センター設立準備室は、県立鶴舞病院の脇に立っている2階建てのプレハブであった。そこには斎藤賢司室長初め総勢30人ほどの職員が居て、私を迎えてくれた。
1997年7月1日、私は正式に千葉県の職員になった。知事からいただいた辞令には、千葉県衛生部技監と県立鶴舞病院副院長を兼務すると書いてあった。そしてその日から千葉市内の県の官舎に住むことになった。官舎の敷地は150坪と広かったが、建物はコンクリートブロック作りの古屋であった。庭の草は伸び放題で、雨戸は硬くて動かなかった。庭に面したガラス戸の上部には、隙間が開いていて、そこから容赦なく外気が入り込んできた。部屋の中はくもの巣が張り、全体にかび臭かった。庭の草を刈り、家の中を丁寧に手入れして、何とか住めるようになった。そこから私は毎日、車で約1時間かけて鶴舞病院に通うことになった。
しかし市原の空は、東京では見たこともないほど広々としてきれいだった。夜良く晴れた日には、星がピンポン球くらいに大きく瞬いていた。私は、しばしば、市原インターチェンジ近くの道路わきに車を止めて、西の空の夕焼けと、東の空に上ってくる満月を交互に眺めた。
1998年1月、センターが開院する直前、たまたま開かれた夕方の医局会で、私はこう提案した。「皆さん、新しいセンターになったら毎朝8時から医局会を開きませんか」。この言葉にとりわけ中堅医師から一斉に反対の声があがった。「毎日夜11まで仕事をしているのに、そんなに朝早く出てこられるはずがない。それに朝8時からでは話せる時間が30分しかないので、何も決められないではないか」。彼らは口々にそういった。
それに対して私は次のように答えた。「公務員の仕事開始時刻は正式には午前8時30分からです。その30分前に話すことは、前日の当直報告とか、どうしても全員に伝えなければならないことだけです。慣れれば10分もかからないでしょう」。「あなた方は夜11時まで仕事をしているというが、なぜそんなに夜遅くまで仕事をしているのですか」。
彼らの一人はいう。「外来患者が多くて、いつも夜8時ごろまで診ている。その後で病棟を回診して、それから自分の勉強をする。だから夜11時過ぎまでかかるのだ」。私は言う。「あなたは今、夜8時まで外来をやっているといいましたね。でもそれがどんなに周りの人に迷惑をかけているか考えたことはありますか。本当に能力のある人は朝8時に仕事を始めて、夕方5時前にキチンと終えるものです」。
この一言で会議は蜂の巣を突付いたようになった。彼らは強硬に反対した。しかし私は一歩も引かなかった。激論が1時間ほど続いた。そして麻酔科の瀬崎登志彰先生がぼそっといった。「みんな、龍野さんがこれほど言うのだから、朝8時はともかく、8時半から一度会議をやってみませんか」。この言葉に呼吸器科の松本博雄先生も賛成した。ベテランの2人がそろって言ったので、さすがの中堅医師たちもそれ以上反論できなくなった。こうして1998年2月から毎朝8時30分に医局のミーティングが開かれることになった。
朝出勤したときに、元気な声で職員から「おはよう」といわれると、今日もひとつ頑張ってみるかという気持ちになる。私の県立鶴舞病院の第一印象は、職員同士が廊下で会っても、あまり挨拶を交わさないということであった。挨拶はコミュニケーションの第一歩である。犬だって道ですれ違えば、ワンというではないか。だが鶴舞病院では「おはよう」とか、「お元気ですか」などという明るい声の挨拶があまり聞かれなかった。そこで私は朝出勤すると、出会う人たちに誰でも、「おはよう」と大きな声でいうことにした。
その効果は直ぐに現れた。まず守衛さんが返事をしてくれるようになり、看護師さんたちも互いに挨拶を交わすようになった。そして事務職員も会えば必ず先方から「おはようございます」というようになった。このことは職員同士にはもちろん、患者さんにも好ましい印象を与えた。受付窓口や入院中の病棟で、患者さんから接客態度が悪いといわれることが少なくなった。
だが、こうした努力にもかかわらず、依然として挨拶を交わさない人たちがいた。それは若手の医者らであった。彼らのほとんどは、大学からの派遣医であった。恐らく前任地でこうした習慣が無かったのであろう、彼らは一様に憮然として自分の世界の中に入ったまま院内を歩いていた。私が「おはよう」と呼びかけても、軽く会釈すれば良いほうである。多くは胡散臭そうにこちらを眺めるだけで無言のまま通り過ぎた。私はそういう人を見ると毎朝顔を覗き込むようにして、「おはよう」といった。それが度重なると、さすがの彼らも、この病院ではすれ違ったとき挨拶をしないと、気まずい思いをするということに気が付く。そして大抵は数ヶ月後に、向こうからぼそぼそとした小声で、「おはよう」という挨拶が聞かれるようになる。
たとえ無理強いされた結果であっても、挨拶はしないよりするほうがいいに決まっている。誰もがここに来て良かったと思える病院にしたいと願っていた私にとって、院内における職員の明るい挨拶、親切な応対は最初の仕事といえるものであった。
接客の初歩である明るい挨拶が交わされるようになれば、病院全体の雰囲気が大きく変わるに違いない。
今の世の中は、お任せ主義(パターナリズム)から自己決定主義に急速に変化している。私の役割は、現在が自己決定主義の時代で、医療はインフォームド・コンセントに基づいて行われること、そして医療がサービス業であり、病院にとって患者さんの満足度がもっとも大切な指標であることを循環器病センターの職員に早く理解してもらうことであった。そのためにまず、新センターの基本理念を作ることにした。1997年12月、私は職員にセンターの基本理念を「良質で模範的な医療の提供」にしようと提案をした。
「サービス業」とは何かを職員に理解してもらうにはどうしたらよいか。私は考えた末、センター開院後、自ら病院の入り口に立って、ホテルのロビーマンのように患者さんを案内することにした。1998年2月1日センターが開院すると毎朝、私は病院の玄関口に立って、患者さん一人一人に挨拶し、案内をした。入り口に白衣姿で立っていると身震いが出た。これは吹き付ける2月の冷たい風のせいだけでなく、緊張感によるものもあった。
鶴舞病院時代から馴染みの患者さんですら、新しい病院ではどこに行けばよいのか分からずきょろきょろしていた。初めて来院した患者さんやその家族はなおさらである。玄関からは患者さん以外にも、さまざまな用件の人が入ってきた。新病院を見学にきた人、器材の納入業者、県や市のお役人、取材に来た記者などなど。
毎日入り口に立っていると、やがていろいろなことが分かるようになった。姿や態度でその人の用件が分かるようになった。さらに私たち病院側の欠点も見えてきた。表示が悪く、エレベーターや電話がどこにあるのか分かりにくかった。窓口の番号は1番が無く、2番から始まっていることを指摘された。実は、1番はロビーの裏側の入院窓口になっていて、入り口から見えなかったのである。正面の壁につけた時計の文字盤が、壁と同じ色で見えない、テレビ画面が小さすぎる、こうしたことも患者さんから指摘されて気づいた。
私のロビー活動は、5月の連休明けに外来担当の看護師長から、自分たちに任せて欲しいといわれるまで3ヵ月間続いた。
しかしこの公務員らしからぬ行動を契機に、職員の意識が少しずつ変り始めていった。
情報の交換は360度が望ましい。現場職員の意見もセンター長の意見と同じように伝達されるようにしたい。現場での新しい発見をどのようにして、院内全体に伝達するかが問題だ。そのためには、病院の幹部が集まって病院の運営方針を決定する会議と、院内の全職種の代表者が、定期的に情報交換をする会議が必要だ。そして幹部が集まる運営幹部会は院長が主催し、各科が集まる合同会議は事務局長が主催する。
このように病院内の会議の主要な部分が作られ、とりあえずボトムアップの情報交換と意思決定のための外枠ができた。次に仕事の現場からトップまで、意見をスムーズに上げるために、委員会全体を再編成することにした。現場からセンター長まで情報を上がりやすくするために、各職場単位の会議と、いくつかの科を横断する機能別の会議を組み合わせた委員会の組織図を作った。そしてその委員には、できるだけ現場で働いている若手の職員を選んだ。これでボトムアップの情報収集は可能になった。
次いで、トップダウンの情報伝達システムを作るために、センター長直轄会議を創設した。鶴舞病院に赴任して間もないころ、事務局長の吉原隆夫さんが私に、企業の経営についてこんなことを言った。「入るを図り、出ずるを制す、これ商(あきない)の基本なり」。センター長直轄会議は、まさにこの考え方を取り入れた病院の経営に直結する会議であった。それらは、物品管理委員会と医療器械購入委員会、それに後になって加えた保険委員会と業務効率化委員会であった。これらの委員会は私が主催し、後で述べるように、トップの経営に関する考え方を職員に直接伝えることを目的とした。
平成10年2月、センターが開院すると、これらの会議は徐々に軌道に乗るようになった。しかし私にはまだ不満があった。それは病院内で誰もが見る情報誌がないことであった。千葉県がんセンターには「仁戸名だより」という親睦会発行の広報誌があった。同じことがなぜ循環器病センターの親睦会でできないのか。理由は二つあった。ひとつは、鶴舞病院時代は組織が小さいので、そうした連絡手段が必要なかったこと、もうひとつは、がんセンターでは、われわれとは比較にならないくらい親睦会予算が潤沢にあるということであった。これでは親睦会に多くを期待するのは無理であった。
ところがその後、思わぬところから院内誌が発行されることになった。2000年4月、源間正幸さんという事務職員が赴任した。彼はコンピューターを得意とし、すぐれたデザイン感覚をもっていた。2001年1月、私は事務局の職員たちに、毎月病院全体に配布している幹部職員の月間スケジュール表の裏側を利用して、院内ニュースを発行してはどうかと提案した。職員の活動情報を伝える既刊の月報の裏側を使い、その時々の院内の出来事を職員に知らせようというのである。職員たちは皆黙っていた。そのとき源間さんが「私が何とかしましょう」といった。源間さんが取材と編集を引き受けてくれたことで、どうやら予算がなくとも院内誌が発行できることになった。それに「千葉循アゴラ」という名をつけ、毎号私が巻頭言を書くことにした。こうして2001年2月から「千葉循アゴラ」は毎月職員に配られることになった。
このささやかな院内情報誌は、その後、病院内外にさまざまな情報を伝える手段となった。
最近では町内会の人から、「アゴラを読みましたよ」などといわれるようになった。
千葉県に就職する前、県庁の職員から、「何か要望はありますか」といわれた。そこで私は、「図書費を毎年3000万円ください」といった。県職員は考えておきますといった。1998年2月、循環器病センターの予算に、図書費が1000万円ついていた。
鶴舞病院時代、図書費はほとんどなく、書庫には古い本ばかりが置いてあった。医師たちは、必要な本や雑誌を自分で購入し、各自の机の上などに置いていた。1000万円の金額には不満だったが、とにかく図書予算がついた。これを有効に使うために、運営幹部会で図書委員会を設置することを提案した。そして中村センター長の許可を得て、その委員長に循環器内科の石川隆尉医長を指名した。彼は不整脈のカテーテル治療を専門としていた。不整脈の専門家は、とにかく粘り強い性格の人が多かった。彼なら図書委員会の委員長として、必ずうまくやってくれるだろうと私は思った。
センターの2階の西側に、70m2ほどの図書館用のスペースが用意されていた。決して広くはなかったが、そこに初年度の予算から300万円かけて、電動式書架と読書机を数台、受付カウンター、それにコンピューターを設置した。図書館の司書は外部に委託したが、幸い近くに住んでいる若い女性が来てくれることになった。石川委員長と司書は相談して、鶴舞病院時代の蔵書を再分類し、コンピューターに入力した上で、全て書架に収めた。また新しい単行本と雑誌については、医局、看護部、検査科、栄養科などから希望を募集し、図書委員会で購入書籍を決定した。
こうして図書館の蔵書は、毎年少しずつ充実していった。図書委員会はさらに他の県立病院の図書館と連絡を取り合い、必要な文献をすぐに取り寄せられる態勢を整えた。そして彼らは全国図書館協会とも連携して、FAXや電子メールでどこからでも情報を入手できるようにした。さらに数年後には、国際的な文献検索組織とも契約して、世界中の論文を図書館のコンピューターで検索し、コピーが取れるようにした。これによって循環器病センターでは、誰でも世界中の文献を即座に入手することが可能となり、職員の医療情報収集の苦労はほとんどなくなった。
新しい薬や医療材料は、厚生労働省の発売認可を得るために治験を行わなければならない。さらに認可後も一定期間、医療現場で安全性について市販後調査が行なわれる。治験を実施するためには、倫理問題をクリアーするために前もって倫理委員会の審査を受けなければならない。センターが始まって直ぐに、製薬会社から第3層の治験(発売前の新薬を実際の患者さんに投与する治験)の依頼が来た。このときは倫理委員会ができていなかったため、残念ながらお断りするしかなかった。そこで私は、院内に倫理委員会を立ち上げ、同時に治験推進マニュアルを作ることにした。倫理委員会は、二人の外部委員を交え、センター長から独立した組織とした。倫理委員会の外部委員一人は、上総牛久町の薬剤師で市原市議会議長の星野伊久雄さんから鶴舞町の岸本静江さんを紹介していただいた。
同じ頃、県立東金病院の平井愛山院長が治験マニュアルを作成した。私は早速それを取り寄せ、厚生労働省の新GCP指針と読み合わせながら、1999年4月、千葉県循環器病センター治験マニュアルを作った。医師たちは治験の推進に積極的であった。直ぐに製薬会社の営業の人たちをセンターに招いて、治験マニュアルと倫理委員会の説明を行なった。しばらくすると市販後調査の依頼が入り、やがて第3層の治験も舞いこむようになった。 当時、厚生労働省は国内での治験を推進していて、その一環として大学病院や国立病院が治験コーディネーターの養成講座を開いていた。治験コーディネーターとは、医師の治験計画に基づいて、患者さんに治験を実施する日時などを連絡、調整し、さらに報告書作成の補助をしたり、記録を保存したりする人である。私は職員をその講座に派遣することにした。この講座には薬剤師や看護師などが進んで参加してくれた。その結果2年後には数人の治験コーディネーターが院内に誕生し、医師たちの治験が一段とやり易くなった。
同じ頃、千葉県の財政が窮乏して、職員の出張予算がどんどん削られた。医師の学会出張費を減らさないよう、何度も県庁に申し入れたが効果はなかった。そこで私は、治験によって得られる資金を、学術目的に限り、病院職員が誰でも利用できるようにすることを提案した。当時、治験による入金は、年間1200万円程度であった。そのうちの70%が県から病院に戻ってきた。私はこのうちの3割を治験事務費にすることで、医局から了解を得た。これで毎年ある程度の資金を、治験推進のために使えることになった。先の治験コーディネーターは、この治験推進費を使って派遣したのである。そしてこの費用の一部を、医師の学会参加費や外国雑誌への投稿費用などにも使えるようにした。
鶴舞町から茂原に向かう県道の途中に奥野トンネルがある。このトンネルは幅が狭くて車が対面通行できないうえに、ときどき崩落するので、何とかならないかという声を患者さんから聞いた。1998年のある日、県の衛生部長から電話で、知事と面談する機会を作ったから、県庁にきて欲しいといわれた。私は千葉県循環器病センターの実績報告書とともに、もし知事が交通のことを言い出したら話そうと、奥野トンネルの地図をポケットに入れて出かけた。知事は私が話す病院の実績を、あまり関心なさそうに聞いていた。報告が終わって雑談になった。そのとき知事が、「あんなに交通の不便なところで、よくそれだけ患者さんが来ますね」と言った。
私はまさにこの一言を待っていた。すぐに私は「おっしゃるとおりです。病院は周辺の人たちから大変信頼されていますが、住民たちが循環器病センターに来るのに一つだけ大変困った問題があります」と言った。知事は「ほう、それはどんなことですか」と聞いた。そこで私はやおら懐から例の地図を取り出して、テーブルに広げた。「実は、鶴舞に通じているこの県道のトンネルが狭い上に時々崩れて、通行止めになります。住民たちから、このトンネルを広げてほしいと、大変強い要望がでています」、と話した。
知事は、椅子から身を乗り出して私の指差す地図の一角を食い入るように覗き込んだ。そして秘書室長に「すぐ土木部長に来るように」と指示をした。知事は土木部長が来ると「このトンネルの工事は今どうなっているね」と訊ねた。土木部長がその工事は予定に入っていますが、いまのところいつやるか決まっていませんといった。知事は土木部長に、それをできるだけ早くやるようにと指示した。
知事室を辞して、衛生部長に挨拶してから私は鶴舞に戻った。知事から話をしてもらったが、実際には、なかなか奥野トンネルが改修されることはないだろうと考えていた。
数ヵ月後、奥野トンネルの改修工事が8番目に行われることになったと噂で聞いた。
それから2年ほどたって、県の市原土木事務所の所長が訪ねてきて、まもなく奥野トンネル改修の測量が始まると告げた。さらに1年ほどのちに、片側に歩道のついた2車線の立派なトンネルが完成し、前後の100mほどの道路も拡幅された。
このトンネルの改修は、茂原方面から車で来る患者さんや職員に大変喜ばれた。茂原だけでなく、遠く大網や東金などからも救急車が来るようになった。後日、長浜純事務局長の粘り強い交渉が効を奏して、小湊バスがこのトンネルを通り、JR茂原駅から循環器病センターまで開通するようになった。これをもっとも喜んだのは、茂原方面から通う高齢者の患者さん達であった。
ある日、市原市議の星野伊久雄さんが私を訪ねてきて、こういった。「今までわれわれは内房の方ばかり見ていたが、こんな立派なトンネルができたのなら、これからは外房の方にも目を向けなければいけませんね。」
県立病院では、院長といえどもどうにもならないことが多い。病院の年間予算案を自ら作れない。配分された予算は他に流用できない。給与はもちろんのこと、職員の定員枠や医師以外の医療職員の採用もすべて県が決めていて、病院長が口を挟むことはできない。医療現場から人や物の配置を要望されても、院長はただ県の担当課にそれを伝えるだけである。
千葉県循環器病センターは開院後、旧鶴舞病院の跡地に110床の病棟とリハビリテーション室、災害医療の施設を建設する予定であった。そのために開院後2年間、2人の優秀な専任の事務官が派遣されて、彼らを中心にセンターの幹部職員たちがそのプラン作りに励んでいた。ところが2000年の末に何の前触れも無く、新館設計の実施予算が削られ、計画は凍結されてしまった。この知らせに私は県庁に強く抗議したが、知事の決定であるの一言で、引き下がらざるをなかった。
民間病院から来た私には、こうした県の方針決定のプロセスがよく飲み込めなかった。千葉県循環器病センターは開院直後から順調に実績を伸ばしていたし、将来も十分成長が期待できると思われたから、増築の予算は当然つくものと考えていた。病院の方針が、県庁によって一方的に決められる仕組みを知った私は、このままでは病院を黒字化するどころか、赤字幅を減らすことすら難しい、と考えるようになった。
しかしこうしたマイナス思考こそ、榊原先生が何より嫌っていたことであった。センターは始まったばかりであった。病院の責任者として残りの7年間、榊原先生の教えに従って、自分の力の及ぶ限り、何とか経営改善に取り組んでみようと私は考え直した。
センター長が直接采配を揮えるのは、医療実績を伸ばして収入増を図ることと、医療経費を節減することの2つに限られる。備品を購入する予算は限られていた。先ずそれを最大限有効に使うことにした。用度係に、医療現場から購入や更新の希望が出ている医療機器の一覧表を作り、見積もりを添えて持って来るように話した。その年の購入希望備品の総額は5億円に上った。
それらを重要度別に「AA」,「A」,「A'」,「B」の4ランクに分けた。こうして、分類された購入希望医療備品リストを基に各診療科の責任者と面談し、それらの必要性と購入後の効果について話し合った。狙いは書類では分からない重要性を見極めることと、複数の科が類似の器械を申請していれば、それらを一つにまとめることであった。こうして購入予定備品を大幅に減らした上で、院内の器械購入会議にかけて、最終的に予算を20~30%ほど超える金額にまで絞り込んだ。
ここから先は用度係りの交渉力がものを言う。私は彼らに、必ず現場の責任者と連絡を取り合いながら業者と交渉するように言った。その結果、初年度、定価の15~20%程度の値引きが可能となり、予算の範囲内で、AAとAランクのすべてとA'の一部の器械を購入することができた。
こうして毎年、器械や備品の廉価購入に努めたが、時には一点で数千万円を超える高額器械を購入しなければならないことがあった。そこで2001年からは、予めある程度の金額をとっておき、センター長枠とした。これは県立病院として高度な医療を担うために必要な機械を、優先して購入できる道を開くためであった。これによって、2001年にはカルトシステム(磁場でカテーテルの位置と心内の電位を同時に測定できる装置)、2002年には院内の動画像転送システム、そして2003年には小児用人工心肺装置を購入した。
医療用の消耗品の管理も、初めに取り組んだ課題であった。1998年4月、センター長になると直ぐに、センター長直轄会議を作り、その中に消耗品の管理を行なう物品管理委員会を含めた。委員は全て、現場で物品管理に直接携わっている人たちとした。
問題は医療材料のマスター登録数が適切で、それらが診療現場で無駄なく使われ、診療報酬の請求に正確に反映されているかどうかであった。消耗品は不動、不良在庫をなくすことが肝心である。物品管理委員会では月に一回会合を開いて、これらを詳細に検討した。
センター開院時の材料のマスター登録数は、消耗品だけで約7千品目あった。これはわれわれの規模の病院で、普通登録される品目の約2倍に相当した。
消耗品材料の在庫調査をしてみると、開院前に各診療科が駆け込みで購入したものが少なくなかった。これらは3ヵ月、6ヶ月ごとの在庫調査で、全く使用実績が無い不動在庫として現れてきた。これらについては、診療現場に確認した上でマスター登録から外した。これによって消耗品の数は大幅に減少した。
在庫調査はさらに続いた。6ヶ月間あるいは1年間に1、2個しか使われない不良在庫品についても、定数からはずし、臨時請求するよう各診療科と折衝を続けた。結局、それらの多くは同種の他品目で代用したり、使用そのものを止めたりした。
不動、不良在庫品の調査中に、消毒期限が1、2ヵ月後に迫った材料が、合計で数百万円分もあることがわかった。これらのうち高額な物品については、①販売店への返品または新品と交換、②再消毒、③期限内に使用、④廃棄の4つの方針を立てた。これによって、多くの物品は廃棄を免れた。しかしこれらはもともと使用頻度の少ない物品であるため、今後は在庫せずに、臨時請求に回すことで各診療科の了解を得た。
用度係と中央材料室が協力して、すべての在庫品を整理した後、残った消耗品を購入金額の多いものから順に並べたリストを作成した。
これは、各物品を保険請求可のものと保険請求不可のもの、保険請求可のものはさらに、政府の公定価格である償還価格で請求するものと、購入価格で請求するものとに分けた。その上で納入業者名などを入れて、一覧表にしたのである。これらの品目を購入金額がそれぞれ3分の1を占めるように、上位、中位、下位に分類した。上位品目はわずか100品目であり、中位品目は約1000品目、そして下位品目は約3000品目あった。
このリストを参考にしながら、用度係は納入業者と価格交渉を行った。償還価格のものは上位100品目に多かった。例えばペースメーカーは当時の償還価格が160~170万円、人工弁は100万円であった。これらの納入価格は償還価格よりも数~10%程度安い。こうした物品は、納入価を下げれば下げるほど病院の増収になる。そこで上位100品目については、重点的に業者と価格交渉をすることにした。また中位1000品目や下位3000品目の中には、原価で保険請求する物品が少なくなかった。これらについては、廉価購入しても特にメリットがないので、特に価格交渉をしないことにした。
さらに中位、下位品目の中に多いガーゼや注射器、針付き縫合糸など、保険請求不可の品物については、償還価格品と同様、しっかりと値引き交渉を行なった。これらは廉価で購入すればするほど、経費の節減効果が大きいからである。医療現場と打ち合わせて、同じ用途のものはできるだけ同一製品に統一し、まとまった数を注文するようにした。これで値引き率が大幅に改善した。このように、この品目リストの作成は、医療材料の効率的な管理と廉価購入に大きな効果をもたらした。
1999年6月、私は、社会保険診療報酬支払い基金千葉県支部の保険審査委員を委嘱された。正直言ってそれまで健康保険の知識は皆無に近かった。 当時循環器病センターでは、保険請求額の1%以上査定されていた。保険審査を1年間続けて、保険点数表の見方や療養担当規則、保険適応になる薬や検査などがある程度分かるようになった。私たちの診療が保険で認められる範囲からかなりかけ離れていて、現場の医師たちがそれを十分に承知していないこと、診療報酬明細書(レセプト)の病名や添付する症状詳記の記載が、保険請求上でいかに大切であるかということも痛感した。
2000年6月、循環器内科の宮崎部長が千葉県の国民健康保険支払い基金の審査委員になった。これを機会にセンター内にセンター長直轄の保険対策委員会を作った。委員会の最終目標を査定率0.3%にすることとした。保険請求額からすると、査定率が1%だと年間で4500万円の減収となるが、もしこれが0.3%になれば差し引き3200万円の増収となる。職員の日常の注意で経営を改善できる好機であった。
医事課の山川係長と相談して、まずレセプトの記載内容の勉強から始めることにした。山川係長は診療報酬の請求と査定状況をまとめて、それを毎月保険委員会に提出した。初めの頃、委員は誰も保険請求の細かい仕組みを知らなかった。だが半年もすると、自分たちの診療の何が査定され易いかなどといった、基本的なことが理解できるようになった。さらに職員を対象にした保険講習会を開催した。中村名誉センター長が千葉県国民健康保険支払い基金の審査委員長に就任したので、講師をお願いした。そして医事課の職員が査定内容などを記載した保険ニュースを毎月発行し、院内に配布した。
効果は次第に現れてきた。医師らに保険診療の感覚が芽生え、日常の診療内容を見直し、症状詳記を丁寧に書くようになった。医事担当の委託職員もレセプトに病名が無ければ、気軽に受け持ち医に聞くようになった。私は職員に「診療報酬のレセプトはアートだ。審査員が医療現場を思い浮かべられるような芸術的なレセプトを作ろう」と話した。私自身毎月、8万点を越える高額レセプトを症状詳記とともに全て事前にチェックした。こうした努力が実り、査定率は2002年には0.5%近くまで低下した。査定率はその後も下がり続け、2004年には0.4%台になった。保険委員会では、常に具体的な話し合いをするように心がけた。そしてその内容を毎月保険ニュースとして、多くの職員に伝えた。
その結果、2006年ごろには、査定率が0.3%台になった。
収入を増加させる最も有効手段は、診療規模の拡大である。循環器病センターでは、何と云っても循環器疾患の患者さんを増加させることが肝要である。センターが開院する前に私は、各科の医師と個別に会って開院後の彼らの目標を聞いた。村山心臓血管外科部長は、鶴舞病院では開心術数が年間80例程度であるといった。私は彼に、センターが発足後、それをどこまで伸ばしたいか訊ねた。彼は「そうですね150例ぐらいでしょうか」と答えた。私は云った。「300例はやらなくてはね」。
開心術年間300例は、当時としては国内で一流心臓外科病院とされる条件のひとつであった。1997年頃、日本では年間、開心術300例を超える病院は4、5箇所しかなかった。200例以上の施設でも10数箇所に過ぎなかった。300例以上の開心術を行なえば、紛れも無く日本のトップ10に入った。村山部長の反応は、「・・・・・」であった。
ところが新病院が始まると手術数はいきなり増加した。そして2000年には開心術で150例以上に達した。すでに初めの目標を超え、もう少しで200例に達する勢いであった。ちょうどその頃、症例数の増加が保険上も優遇されることになった。2002年の保険改定で開心術症例の保険点数が軒並み上がった代わりに、人工心肺症例100例未満の施設では保険点数の70%しか請求できないことになった。
開心術300例の目標は、単に収入を増やすためだけでなく、もう一つ別の理由があった。手術数が増加すればより多くの専門医を育てられる。当時、心臓血管外科の専門医制度の発足が間近に迫っていた。これからは心臓血管外科専門医を教育できる施設が高いステータスを得る、千葉県循環器病センターは、千葉県内で心臓血管外科専門医教育の中心的な病院であるべきだと、私は考えていたである。
開院して5年目、これからは新しい医療を自ら創造していく必要がある。そう考えて、2002年4月から病院のテーマを「創造性のある仕事をしよう」にした。このセンターには県内で唯一の設備と機能がある。そのひとつがガンマナイフである。約200個のコバルト60から出るガンマ線を数ミリ大に集めて、脳の障害部分を焼き固めてしまう治療器である。これを使うと頭を開かなくとも、脳の深いところにある病気を治すことができる。
ガンマナイフは鶴舞病院時代、中村常太郎院長が、千葉大学脳神経外科の小野純一医師(現千葉県循環器病センター長)と相談して導入したものである。日本で23番目、県立病院では全国で初めてであった。ガンマナイフ導入の苦労話は、中村先生から散々聞かされた。導入に8億円かかった。当時は保険適用されていなかった。見通しがあったわけではないが、間もなく適用になると言って県を説得した。ガンマナイフは主に脳動静脈奇形などの脳血管病に使われるので、循環器病センターに置くべきだと主張した。だが実のところこれによる収入はほとんど期待していなかった、等々。
ところがガンマナイフの設置がきまると、直ぐに保険が適用された。さらに肺がんの脳転移の治療に大きな効果があることが分かり、千葉大学病院や千葉県がんセンターなどから患者さんがたくさん送られてきた。開院後2、3年目に、ガンマナイフ専従の脳外科医、芹澤医師は私にいった。「当センターの症例数はいまや日本で6番目です。近々年間400例になるでしょう」。ガンマナイフはもはや医者の玩具ではなく、れっきとした循環器病センターの看板になった。彼の言葉のとおり、開院後4年で1000例の照射が行われた。2002年秋には、かつて彼が研修した横浜労災病院の前部長を迎えて、記念の講演会が開かれた。
そして設置後5年半たった2003年10月、およそ2億5000万円の費用をかけて、コバルト60の線源交換とソフトウエアのBからCへのバージョンアップが行なわれた。財政が逼迫していた時期に県は、よくぞこんな高額医療器械の更新をしてくれたものである。これを契機に患者数は大幅に増加し、芹澤医師の目標も年間400例から600例に変わった。そして2005年10月には、ついに累計が3000例に達した。年間600例の照射数は、日本では3番目に相当する。これが実現すると、5年間で返還する予定だった借入金を4年で返せることになる。今やガンマナイフは、センターの稼ぎ頭であると同時に、豊富な症例を背景に、若手医療者の教育施設としての立場を確立した。
効果は次第に現れてきた。医師らに保険診療の感覚が芽生え、日常の診療内容を見直し、症状詳記を丁寧に書くようになった。医事担当の委託職員もレセプトに病名が無ければ、気軽に受け持ち医に聞くようになった。私は職員に「診療報酬のレセプトはアートだ。審査員が医療現場を思い浮かべられるような芸術的なレセプトを作ろう」と話した。私自身毎月、8万点を越える高額レセプトを症状詳記とともに全て事前にチェックした。こうした努力が実り、査定率は2002年には0.5%近くまで低下した。査定率はその後も下がり続け、2004年には0.4%台になった。保険委員会では、常に具体的な話し合いをするように心がけた。そしてその内容を毎月保険ニュースとして、多くの職員に伝えた。
その結果、2006年ごろには、査定率が0.3%台になった。
入院患者さんにとって毎日の楽しみは食事である。今日はどんな組み合わせの、どんな味の食事が運ばれてくるのか、一日3回の最大の関心事である。主任栄養士さんは、温かな食事を供給することに心を砕いていたが、見た目の美しさやレパートリーといった点でやや物足りなさがあった。そのため、入院患者さんから、もう少し変化に富んだメニューにしてもらえないだろうかという意見を多くいただいた。
2001年4月、人事異動に伴い新しい主任栄養士さんの長谷川さんが赴任してきた。長谷川さんは、前任地が千葉県こども病院だけあって、料理にこまやかな気配りをする人であった。彼は着任早々メニューのレパートリーを増やし、食品の組み合わせを豊富にして、見た目にもまた味の面でも工夫をした。当時センターの入院患者さんの平均在院日数は15、6日であった。少しレパートリーを増やせば、容易に一回の入院期間中ずっと違う内容の食事を出すことが可能であった。また鶴舞町は、房総半島の丁度真ん中に位置し、周辺の農産物を入手しやすい環境にあった。長谷川さんは、地元産の野菜をできるだけ豊富に使った食事を供給した。
更に彼は食事盆にちょっとした工夫を凝らし、季節感を漂わすことも忘れていなかった。例えば3月3日の桃の節句には、桃の小枝や折紙の雛人形をのせたり、秋には真っ赤なもみじの葉を添えたりした。
こうした努力により入院患者さんの食事に関する苦情は皆無になった。朝、昼、夕方に病棟のデイルームに集まって、楽しげに食事をしている患者さんたちを眺めていると、なんとなくほっとする。決して満足ではないかもしれないが、少しでも入院中の慰めになればと思うからである。
開院以来、病院2階ロビーの一角にリハビリテーションの道具がごたごたと置いてある36m2ばかりのスペースがあって、周りに目隠しのカーテンが引いてあった。これらのリハビリの道具はほとんど使われず、ここはいつも暗くて、いわば死んだ空間であった。
2003年1月のある日、病院の図面を見ていた私は、そこにギャラリーと書かれていることに気づいた。庶務課の分目主幹に、このギャラリーとはどんなものかと訊ねた。彼は「ギャラリーはギャラリーですよ」と答えた。そこで私たちは早速それを見にいった。主幹が壁の一角を鍵で開けると、中から縦横3m、厚さ5.6cmのパネルが8枚、天井のレールに吊り下がりながらスースーと出てきた。それらをスペースいっぱいにコの字に配置したところ、確かにすばらしい展示空間が出来上がった。「何だ、立派なギャラリーじゃないか」、私は思わず言った。
パネルは全体的に薄ねずみ色で、上3分の1くらいのところに丸い境があり、そこから上は肌色をしていた。天井にはそれまで気づかなかったが、パネルを明るく照らすための電球がたくさんぶら下がっていた。こんな立派なギャラリーがこの病院にはあったんだ。私はまるで宝物を発見した探険家のような気分になった。
ちょうどそのころ千葉県循環器病センターは、1998年2月に開院してから5周年を迎えていた。そこで2002年秋から、山口事務局長、齊藤医療局長と相談して、記念行事の開催を検討していた。その内容は、初めに記念講演会を開催し、同時に記念誌の発行と院内で芸術展を開こうというものであった。予算は講演会の講師の謝礼のみで、他にはまったくなかった。講演会は私が榊原記念病院時代から懇意にしていた、朝日新聞編集委員の田辺功氏にお願いした。記念誌は予算がないので、毎年病院で発行している年報を病院創立時の方々に寄稿をお願いして膨らませ、記念号とすることにした。
問題は芸術展であった。予算がない上に、どこでどのような展示をするか、素人の私たちには皆目見当がつかなかった。(挿図は鶴舞小学校5年、八島麻奈さんの絵)
話は変わるが、2000年に私の高校時代のクラブの先輩、飯島澄夫さんがカーボン・ナノチューブの発明によりアメリカ物理学会のベンジャミン・フランクリン賞を受賞した。8月、その祝いの会が銀座のビアホールで開かれた。その席で、たまたま一人の男が私に話しかけてきた。ぼさぼさ頭で四角い顔、めがねの奥のやさしい目が笑っているように見えた。その男は、自分は漫画家で内田玉男というものだといった。もらった名刺には猫の漫画が書いてあった。
2002年の晩秋、いよいよ芸術展の具体的な計画を立てる段階になって、私は、ふっと内田さんのことを思い出した。そこで彼がどんな漫画を書くのか聞いてみることにした。私の問い合わせに彼は早速、自分の作品展の写真と、サンデー毎日に連載している俳句漫画の写しを送ってくれた。ほのぼのとした猫の絵とユーモラスな俳句漫画であった。そこで彼に電話をして展示を依頼したところ、二つ返事で了解してくれた。
これを契機に、芸術展への出品者は、地元の粉引き陶芸作家の鵜澤綱夫さんと、事務局長が推薦する県職員で房総の風景写真を得意とする写真家の山口秀輝さん、それに漫画家の内田玉男さんに決まった。問題は展示場所であった。事務局長や主幹もいろいろ考えてくれたが、なかなか良い場所がなかった。
たまたまそのとき私が病院の図面を見て、ギャラリーを発見したのだ。早速、置いてある器械を片付けられないか話し合った。その結果、関係者は、場所さえ確保してくれれば移動してもよいと言ってくれた。
2003年2月17日、ギャラリーはオープンし、粉引き陶芸展が開幕し、引き続き房総の景色の写真展、そして漫画展が開催された。この展示会は大きな評判を呼んだ。千葉日報にも取り上げられ、千葉県循環器病センターにギャラリーがあることが広く知れわたった。
また話は変わるが、鶴舞町に岸本恭一さんという青磁の陶芸家がいる。奥様の静江さんはスペイン文学の翻訳者であり、作家でもある。静江さんは、上総牛久町の薬剤師で市議会議員の星野伊久雄さんから紹介されて、数年前から私どものセンターの治験審査委員をして頂いていた。5周年記念芸術展が終了したある日、私は岸本ご夫妻を訪ねた。理由は奥様に引き続き治験審査委員を引き受けていただくことと、ご主人にはギャラリーの展示に協力いただけないかということであった。この二つのことは難なく了承された。そのとき5周年の芸術展の話に触れて、私はすべての方がこちらの展示依頼に対して、それこそ二つ返事で了承して頂いたという主旨の話をした。岸本氏はそれを聞いて即座に、そのギャラリーを「二つ返事」と名づけようといった。それでこのギャラリーの名称は「二つ返事」に決まった。ギャラリー二つ返事にはその後、岸本恭一氏の青磁展を初め、油絵展、竹細工展、芝原人形展などが次々に開かれて、患者さんに喜ばれた。(挿図は鶴舞小学校、みやまえりさんの絵)
2005年、ガンマナイフとリハビリテーションのための新棟の建設がはじまった。実は、この計画は初め、ガンマナイフの外来診療のための新棟と新しいMRIの設置の予算しかついていなかった。リハビリテーション室の新設は県から全く認められていなかったのである。
千葉県循環器病センターでは、1999年に旧鶴舞病院を取り壊して、そこに110ベッドの別館を建設することになっていた。そしてその1階部分にリハビリテーション室を設置する予定であった。しかし間もなく知事の交代とともに計画は凍結され、リハビリテーション室は、院内の集会場である多目的ホールに仮設置され、そのままになってしまった。
私は、窓のない集会場に押し込められたリハビリテーション部門を回診するたびに、残念な気持ちを抑えられなかった。いつの日かチャンスがあれば、リハビリテーションのための独立した部屋を作りたいと考えていた。
5年後、ガンマナイフの新棟建設と新しいMRI設置工事が決まった。私はチャンスが来たと思った。この際何とか予算を工面して、リハビリテーション室を作ろうと決心した。この計画を立てているとき、事務局の次長に豪腕の牧野敬一さんが赴任して来た。彼は県庁の様々な人たちと広い人脈を持っていた。特に財務や建物管理に関する分野の人ともつながりがあった。県立施設を増改修する場合、県の管財課や営繕課が主導することになっていた。私にはこういった役人達との人脈がないため、直接交渉しても全く効果がなかった。この点に関して彼は交渉方法を熟知していた。
初めのころ彼は、私が言うMRIの納入価を下げてお金を浮かした上に、さらにガンマナイフ外来棟と一体の工事をして、その隣にリハビリ室を作ってしまうという案に乗り気でなかった。しかし、繰り返し私の話を聞くうちに、だんだんこちらの熱意に動かされるようになっていった。そして彼の働きかけで、県の営繕課や財務関係者もリハビリ棟の建設を認めてくれるようになった。そして、2006年3月、ガンマナイフ棟と新しいMRI室それにリハビリテーション室が無事に出来上がった。6年間、我慢し続けてきたリハビリテーション室がついに独立したのである。
千葉県循環器病センターでは、開院以来、医療事故ゼロを目指してやってきた。幸いのことに初めの5年間は、患者さんとの大きなトラブルはなかった。ところが5年目を過ぎたころから、事故が急に多くなり始めた。開院当初の緊張感がなくなり、職員の危機意識が薄れてきたせいかもしれない。
2003年のある日、早朝のスタッフ会議で、脳梗塞で嚥下困難な女性患者さんが前日の夜半、12指腸穿孔で開腹術を受けたことが報告された。この患者さんは自ら食事を取ることができないため、看護師が介助して毎食粥を少しずつ食べさせていた。前日の夕方、たまたま家族が付き添っていたので、担当の看護師は家族に食事の介助を任せた。食事は柔らかい粥であったが、おかずに金目鯛の煮つけが出ていた。看護師の報告では、手術時に12指腸穿孔部から4~5センチの硬くて、先端の尖った白いものが出ていたとのことであった。
報告を受けてまず私は、患者さんの容態はどうか聞いた。幸い患者さんは元気で、手術室から一般病棟に帰室していた。私はさらにその腸から外に出ていたものは何かと聞いた。それが手術室に保管してあったので、早速それを栄養科に持って行って調べてもらったところ、それが金目鯛の骨であることが分かった。金目鯛の骨は結構太く、鋭く、しかも長い。これをそのまま飲み込めば、小腸の壁に突き刺さって、外へ出る可能性は十分にある。
私はその場で、患者さんを必ず元通り元気にさせること、手術になった理由を家族に正直に伝えること、そしてそれらを正確に病歴に記載すること、栄養科は、何故骨付きの金目鯛を嚥下困難な患者に出したか調べること、開腹術以後の医療費は病院の負担にすることなどを指示した。
患者さんの家族は、担当者の説明をよく理解してくれた。栄養科では、以前から骨付きの金目鯛の煮つけを粥のおかずとして出していた。いつも嚥下困難者は看護師が食事の介助をしているので、今までは問題なかった。家族が食事介助してこのようなことが起こるとは、想定していなかったということであった。患者さんはその後順調に回復して、2週間後には術前と同じ状態になった。
金目鯛の骨事件が残した教訓は少なくなかった。栄養科は、これ以後、脳障害のある患者に骨付の金目鯛の食事は出さなくなった。家族が食事の手伝いをするときは、看護師が十分に見守るようになった。そして病院も以後の重大な医療事故に対して、これと同じように対処する体制を整えることになった。
病院が軌道に乗ってきた頃に医療事故が起きる。着慣れた服でもボタンを掛け違えることがあるように、通常行っている治療が思い通りにいかず、トラブルが次々に発生することがある。2003~5年はまさにそういう年であった。
2004年春に心臓手術をした幼児が、術後2日目に突然心肺停止し、蘇生術を施したが死亡した。翌2005年3月、入院中の患者さんが、鼻から胃に挿入していたチューブの先端が肺に入って、注入された栄養液で窒息死した。同じ頃、血管外科でカテーテル挿入のために鎖骨下静脈を針で穿刺したところ、胸腔内に大出血して患者さんが意識不明の重体になった。
これらの事故はいずれも直に県庁の病院局に報告された。病院局からはすべて警察署に届けよと指示があった。警察に届ければ刑事事件になる。私は散々考え抜いた末、患者さんのご家族と医療を行った当事者の同意を得て、そのうちの一件だけ警察署に届け出た。
捜査は直ぐに開始され、当時者は署内でかなり厳しく尋問された。私も捜査への協力、患者さんのご家族への謝罪と補償の話し合い、マスコミへの対応、事故調査委員会の立ち上げ、報告書の作成と県庁への提出、当事者の職員に対する精神的、社会的支援、院内の動揺の軽減や風評による患者の減少に対する対策など、さまざまな問題に直面した。
当時、新聞やテレビで医療過誤の問題が大きく取り上げられていた。大学病院などで起きた医療事故が、マスコミに大々的に報道されていた。そうした世相を反映して政府や県は、医療機関に対して厳しい医療事故対策と警察への通報を求めていた。
言うまでもないが、医療は病気を治すために行われるものである。医療者は患者さんに良かれと思って診療をしている。ところが医療事故を境にして、そうした善意の医療者が急に刑事事件の容疑者と同じ扱いをされるのである。リスクの高い医療に携わる有能な医師や看護師ほど、こうした状況に陥る可能性が高い。医療行為を行った結果、次々に刑事事件で裁かれるようでは、医療者は危険な医療に手を出さなくなる。こうした世論の形成や行政のやり方は、患者さんと医療者の間の信頼関係を失わせ、医療に荒廃をもたらすだけである。千葉県循環器病センターに勤務した10年間で、この数年間は、私がもっとも苦労した時期であった。
千葉県循環器病センターに赴任して間もなく、ただでさえ少ない医師の出張費が削られた。それを抗議しにいった私に対して、県の若い職員は次のように言った。「なぜ病院の医師だけがそんなに出張するのですか。単なる物見遊山で勤務を離れて学会に参加するのなら、県職員としては許されませんよ」。これに答えて1998年4月、私は次のような文章を県の担当者に送った。
「医師は本来患者を診るために病院で働いている。それなのになぜ患者をおいて学会に参加するのか。県立病院の医師たちが予算もないのに、自腹を切ってまで学会に出る理由は何なのか。これは一般県職員には恐らく理解し難いことであろう。
その理由はおよそ次の4つである。1つ目は、医師の世界では個人の評価基準として、研究業績がもっとも重要視されている。そのため多くの向上心のある医師は、大学卒業後、研究にいそしみ、その成果を学会で発表する。理由の2番目は、医療は日進月歩であり、発展する医療技術や知識を取り入れるためには、学会や研究会に参加することが早道であるということである。最近は患者の知る権利が拡大している。正確な情報を患者に提供するためにも医師は年齢に関係なく、学会で最新の医療情報を吸収しているのである。
3番目には、医学教育、卒後教育をめぐる最近の変化がある。衆知のように全国の医科大学では、今、学生教育改革の真最中である。医学部の5年、6年目の学生を大学だけでなく、市中の教育病院でも実施研修させようとしている。この結果、われわれ県立病院の医師も学生教育の一端を担うことになり、より新しい知識を吸収する必要性が高まっている。
卒業後の医師研修制度も大きく変わろうとしている。厚生労働省は、卒業後2年間、全ての医師に一定の研修病院で臨床研修を受けることを義務化しようとしている。問題はこの研修病院の指定を得るハードルが、極めて高く、現状では県立7病院は、単独ではその指定を受けることができない。このままでは近い将来、県立病院に卒後2年目までの若手の医師は来なくなる。臨床研修病院の指定を勝ち獲るには、個々の県立病院の診療レベルを高めるとともに、7病院がまとまって若手医師を教育できる環境を整えることが不可欠になる。
そのために県立病院では、医師らに積極的に学会に参加して、最新の医学的知識を吸収するよう勧めているのである。県当局にはこうした実情をご賢察していただきたい。」
「最後に、医師が学会に参加するもっとも重要かつ切実な理由を説明する。現在、病院に勤務する医師はほとんどが2つ以上の学会に所属している。彼らはそれらの学会の認定医、専門医、指導医などの資格取得、あるいは資格の更新を目指している。今多くの学会はそれぞれの会員のために専門医(または認定医)制度を備えている。例えば、心、肺、食道外科を専門とする医師の集団である日本胸部外科学会では、認定医と指導医のコースを持ち、その研修教育病院を指定している。
日本胸部外科学会の指導医を取得するには、先ず日本外科学会の会員になり、一般外科を2年間研修し、外科の認定医資格を取らなければならない。その後、日本胸部外科学会の認定施設で4年間胸部外科の修練を続け、学会が行なう学術集会と卒後教育セミナーに毎回参加して、胸部外科学会の認定医を取得する。さらに胸部外科学会の指導医を取るためには、6年間、学会が認定する病院に勤務しながら手術を行い、論文を執筆して相当の実績を積まなければならない。こうして胸部外科の最新の知識と技量を身に着けた外科医だけが、晴れて日本胸部外科学会の指導医資格を取得できるのである。
このように10年以上かけて取得した認定医や指導医の資格も、5~10年後には更新をしなければならない。更新の条件は、学会が認定する病院に勤務し、規定以上の学術的業績を上げていること、学会が開催する学術集会に必要回数以上参加していることなどである。
一方、学会が指定する教育病院になるのにも厳しい条件がある。日本外科学会の認定病院には、外科学会の指導医が1名以上、認定医が2名以上常勤していなければならない。胸部外科学会の指定病院では、指導医が1名以上常勤していなければならない。もしこれらの条件を満たさなければ、県立病院といえども学会から教育病院の認定を受けられない。
専門医研修のシステムは他の学会でもほぼ同じである。したがって専門医を目指す若い医師は、資格取得のために学会認定の教育病院に集まってくる。もちろん千葉県立病院はどこも、各学会が認定する教育病院になっており、指導医たちは積極的に若手医師の教育に当たっている。公的病院としては今後ともこの役割を続けていくことは当然の責務であり、また県にとっても医師確保の上で十分にメリットのあることである。
以上の理由から県立病院に勤務する医師の多くは、自らのキャリアアップと所属病院の存亡をかけて、毎年学会に参加しているのである。一般県職員と異なる医師たちのこうした実情をよく理解した上で、それに配慮した運営をしていけば、今後とも県立病院に若い優秀な医師が集まり、結果として県民の健康が守られることになる。」
病院の業務に忙殺されていた私に更なる仕事が舞い込むことになった。学会の役員の仕事である。
日本胸部外科学会の中に教育病院で作る協議会がある。2000年4月、私はその会の会長に推された。これは全国の大学以外の国公私立病院の胸部外科指導医が情報を交換する会で、毎年研究会を開いて、若手外科医や医療スタッフの教育問題、医療事故、それに医療経済などについて話し合っていた。協議会は発足以来毎回、胸部外科学会の理事選挙に候補者を擁立していた。2000年6月、会長の私は自動的に理事候補に推薦され、10月の選挙に立候補した。私自身、電話をかけたてそれなりの事前運動をしたし、協議会の役員たちも積極的に応援してくれた。しかしその結果私は落選し、当選したのは大学教授ばかりであった。
2年後の2002年10月、私は再度、立候補の要請を受けた。この年は前回と異なり、大学病院などで医療事故が多発し、社会の医療不信が頂点に達していた。また保険が改定されて心臓血管外科の施設基準が厳しくなり、医療経済の問題が学会内で大きな話題となっていた。さらに専門医が心臓血管外科と呼吸器外科の2つだけに限られ、胸部外科の専門医が認められなかったため、胸部外科学会の存在基盤が揺らいでいた。
協議会では、以前からこうした問題を繰り返し議論してきた。評議員の間には、学会の運営を大学教授ばかりに任せておけない、この際市中病院の考え方を導入する必要があるという認識が広まっていた。そうした背景もあって、このときの選挙で私は、国立がんセンターの土屋呼吸器外科部長とともに理事に選出された。
日本胸部外科学会の理事になった私に早速2つの役割が与えられた。ひとつは専門医制度委員会の委員であり、もうひとつは学会の英文学術誌の編集長であった。
当時、心臓血管外科および呼吸器外科専門医制度が1年半後に発足する予定で、学会内で盛んに準備が進められていた。心臓血管外科専門医は、胸部外科学会、心臓血管外科学会、血管外科学会の3学会が心臓血管外科専門医認定機構を作り、そこで認定することになっていた。私は、胸部外科学会から推薦されて、認定機構の幹事になった。
ところが幹事になるとすぐに、厚生労働省が専門医認定の外形基準を発表し、法人格を持つ学会だけが専門医を認定できることになった。つまり学会でない認定機構は、専門医の認定の資格がなくなったのである。急遽、3学会が法人化することになり、機構は、専門医認定審査の実務を行うことになった。約1年の間、3つの学会が大慌てで対策を進めて、2003年秋には何とか心臓血管外科専門医の試験も実施され、2004年3月末に第1回の専門医の認定が無事に終わった。
ところが、翌2005年の春、ある医科大学で専門医が手術した心臓病の患者さんが次々に亡くなる事件が起きて、専門医に対する信頼が大きく揺らぐことになった。認定機構は、この執刀医の専門医資格を取り消し、専門医および教育病院の認定基準を引き上げ、さらに各学会の医療安全講習会への参加を専門医に義務付けたりした。こうした矢継ぎ早の制度改正に対して、機構の代表幹事に対して学会内から批判の声が上がった。そして代表幹事はその秋の学会の総会で辞意を表明した。
翌2006年1月に機構の総会が開かれた。その席で、寝耳に水であったが、私が次の代表幹事に推薦された。こうして私は、千葉県循環器病センター長と教育病院協議会の会長、学会の会誌編集委員長、それに心臓血管外科専門医認定機構の代表幹事の4つの大役を同時にこなさなければならなくなった。
鶴舞町に岸本恭一さんと静江さんのご夫妻が住んでおられる。私が最初にお目にかかったのは、奥さんの静江さんである。開院時に循環器病センターは倫理委員会を設置することになった。星野伊久雄氏の推薦で、その外部委員として静江さんにご就任いただいた。
岸本静江さんは、元NHKに勤めていたスペイン語のスペシャリストで、翻訳家であり、自らも小説を書いている鶴舞町で一番のインテリ女性である。そうした広い見識を持った方から、倫理性の高い意見を述べてもらうために、倫理委員を委嘱したのである。
ご主人の岸本恭一さんは青磁作家である。県立高校で教鞭をとられていて、引退後はメキシコの国立陶芸学校の校長を務めるなど海外でも活躍し、帰国後に鶴舞窯を主宰して陶芸を教える傍ら、自らも青磁器を制作し、繰り返し展示会を開いておられる。岸本さんが焼く青磁の壷は、凛として気品に満ちている。それを部屋の片隅に置くと、その空間だけが高貴な空気に包まれたようになる。
センターが開院して5年過ぎたとき、5周年記念行事の一環として院内のギャラリーで展覧会を行なった。そのあとギャラリーをどのように活用していくか皆で考えていた。そこで私は岸本恭一さんをお訪ねして、ギャラリーの美術監督に就任していただけないかお伺いした。美術監督といっても報酬も何もなくて、岸本さんの青磁を展示していただくことと、地元の美術愛好家の展示にアドバイスをしていただくことが目的であった。
そんな虫の良い話をしているときに私がこう付け加えた。「今まで、このギャラリーに展示をお願いした方々は、全て二つ返事でやってくださることになりました。岸本さんにも是非、美術監督のご就任と作品の展示をお引き受けいただきたい」。すると岸本さんは即座にこういった。「それではそのギャラリーを『二つ返事』と名づけよう。」これが岸本さんの了解の返事だった。
それ以来、センターの小さなギャラリー『二つ返事』は、岸本夫妻のご紹介で、小学校の生徒さんからプロの画家まで、近隣の美術家、美術愛好家の方々が続々と展示してくれるようになった。作品は、押し花、こより絵、ステンドグラス、陶芸、写真、人形、油絵、水彩画、エッチング、漫画、創作凧や竹細工、釣竿などあらゆるジャンルに及んだ。
岸本さんご夫婦はオープンな性格で、頭の回転が速く、会話がぽんぽんと飛び交う。いっしょにいるととても楽しく、一度お訪ねして以来、私は足しげくお宅に通うようになった。またセンターにもたびたびお出でいただき、ギャラリーの展示だけでなく病院の行事にも参加していただいた。
岸本恭一さんがある日私にいった。「鶴舞の奥に、素晴らしく変わった人形作家の夫婦がいる。これからそのお宅に行きますが、一緒に参りましょうか」
昔、江戸浅草で今戸人形という素朴な人形が作られていた。今戸人形はその後廃れたが、今から100年以上も前に、それが房総半島で芝原(しばら)人形と名づけられ作られるようになった。芝原人形は素焼きの土台を白く塗って、そこに泥絵の具で赤や青、黄色、茶色などに彩色したものである。人形以外にも猫や犬、鳥などもある。どれも丸こくて、なんともかわいらしい。千葉惣次、真理子ご夫妻はその芝原人形作りの5代目で、今もお二人でこの人形を作り続けておられる。毎年3月の節句には、森の中の工房でお二人の作品の展示会が開かれ、大勢の客で賑う。
千葉惣次さんは人形作家であるととともに、いわゆる古物の収集家でもある。というか、もしかしたら古物収集のほうが本業なのかもしれない。千葉さんの集める古物は普通の骨董とは違う。例えば昔の大きな農家の屋根裏に、家を守るためによく梁に飾ってあった木彫りの鷹、煙と埃で真っ黒になったその木片を、決して煤や埃を払わずにそっと運んでくるのである。
岸本さんと一緒に千葉さんを訪ねたとき、私は古ぼけた縁台に腰掛けた。すると千葉さんはこう言った。「今あなたがかけたその台は、永平寺の門前の茶屋にあったもので、江戸時代から使われていたものです。この台にはその時から沢山の人が座ったという歴史が刻まれています。そこに付けられた傷も積もった埃も時代を物語っているので、決して払ったり、拭いたりしてはいけないのです」。
そして千葉さんが、最近手に入れたという逸品を私たちに見せてくれた。それは和紙でできた江戸時代のやや大きめの紙入れ(財布)であった。古くて破れそうな表紙の紙を、千葉さんは丁寧に開いた。するとその中にはまた紙が畳まれていた。それをまた丁寧に開くとまたその中に紙が入っていた。千葉さんは真剣な顔で幾重にも重なった和紙を丁寧に開いていった。すると、なんとそれが屋形船になった。
千葉さんはこの古物を、大金をはたいて買ったそうである。彼はこう言った。「これは江戸の裕福な商人が持っていた遊び道具だったと思います。当時の富裕層は、お座敷で芸者らを前にこうしたものを広げて、座興にしたのです。いわば江戸町人文化の一つといえます」。
千葉さんの工房は古い農家を移築したもので、本当はもう一軒分解体した材木を持っているのだが、資金がなくてそれを組み立てられないのだという。彼は東北地方を回って古物だけでなく、民家もそっくり購入してきたのである。
千葉さんのところにほんの10分程度と思って立ち寄ると、私はいつも1時間以上滞在することになる。それは、私たち都会生活者がとっくに失ってしまった、日本人本来の生活や考え方を、彼が何気なく教えてくれるからである。岸本さんの言うように千葉夫妻は本当に素晴らしい変人である。
星野伊久雄さんは、上総牛久町で薬局を開いている薬剤師さんである。私が県立鶴舞病院に赴任したとき、中村常太郎先生を訪ねて来られ紹介された。人当たりの良い、周囲に大変気遣いされる紳士であった。市原市議会の議長をしているとのことであったが、偉ぶったところは微塵もなかった。中村院長の話では、市原市では一番まともな議員であるとのことであった。私はお会いしてすぐに親しくなった。星野さんから岸本ご夫妻を初め、市原市の多くの知識人を紹介していただいた。
2004年ごろ県から、循環器病センターを客観的に評価し、かつ応援してくれる地域医療懇談会を作れという命令があった。地方公営企業法の全部適用をするに当たって、外部の人が、直接センターに意見の言えるシステムを作る必要があるからとのことであった。
そこで私は星野さんに電話した。懇談会の会長を引き受けていただくことと、併せてはっきりものを言う南総地区の方を委員に推薦して欲しいと話した。星野さんは岸本恭一さんと鶴舞町会副会長で前の鶴舞小学校の校長先生、山内一郎さん、そして地域のミニコミ新聞「伝心柱」の編集長、原地利忠さんなどを紹介してくれた。
センターで開かれたこの懇談会は実に楽しいものであった。集まった委員たちはこの地区に長年住んで、鶴舞町をこよなく愛している人たちであった。話は循環器病センターの活動に留まらず、南総地区全体の活性化の話にまで広がり、果てることなく続いた。星野さんの巧みな司会が、委員の意見をどんどんと引き出させ、新しいアイディアが次々に披露された。数ヶ月に1回のこの会談は、私がセンターに赴任中、最も愉快で実りある会議であった。
鶴舞の和菓子屋たぶち屋の田辺さんは、毎年春に季節限定で山椒餅作っていた。顔役の内藤さんや町会長の佐久間さんなど鶴舞商工会の方々が、私が鶴舞病院に赴任したというので、中村院長とともに近くの温泉旅館で懇親会を開いてくれた。慣例ということで宴会の前に皆で温泉に入った。ここの温泉は濃い茶色をしていて、肌触りも多少トロっとしていたが、とても体が温まり、温泉から出ると気分が爽快になった。
宴会は、初めはそれぞれ自分の席に座って静かに飲んで食べた。しかしそのうちに席を立って互いに酒を注ぎ回るようになり、最後は全員酔っ払って大騒ぎになった。町の人たちと何度も盃を酌み交わし、談笑し、やがて何も分け隔てなくなって、その日の宴会は終わった。私は町の皆さんにお礼を言って、中村院長とともにタクシーで千葉の官舎に帰った。旅館を出るとき土産にといって小さな紙袋を渡された。
翌朝その紙袋を開けてみた。中に濃い草色の、太い櫛形をした餅が入っており、たぶちや謹製山椒餅と書いてあった。山椒餅はその日は柔らかかったが、翌日には硬くなった。妻の雅子は一口かじっただけで臭い、不味いといって、放り投げた。私もひとかけら口に入れてみたが、ほの甘い味とともに山椒独特の癖のある芳香が口いっぱいに広がた。不味くはなかったが、なぜかトイレの防臭剤を連想させた。山椒餅はそのまま冷蔵庫に放り込まれた。
晩秋のある日、冷蔵庫に見慣れない塊を見つけた。たぶち屋謹製と書かれた包み紙があったので、黒く固まったそれが山椒餅であることを思い出した。コチコチのその塊はとても食べられそうになかった。そのまま捨てようかと思ったが、試しに金網に載せて焼いてみた。山椒の香りが部屋一杯に広がった。焦げ目のついたかけらを一口含んでみた。それは春に食べた山椒餅よりずっと濃厚な味がした。甘みも山椒の香りもぐっと増して、私には美味しく感じられた。雅子にも食べてもらった。彼女もその味にびっくりした。そしていった。「結構、美味しいわね」。
それ以来私たちは山椒餅のファンになった。毎年春、季節限定で山椒餅は作られた。早く注文しないと手に入らなかった。私たちはときどき商工会の方を通じてそれを手に入れた。そしてまだ柔らかいうちに火で炙って食べた。食べれば食べるほど、その味は私たちの舌に馴染んだ。
岡部三男さんは千葉県循環器病センターの運転手さんである。大柄で、誰とでも気さくに話す彼は、宴会や院内旅行などのムードメーカーであった。岡部さんは、昭和30年代、鶴舞病院が低体温麻酔で心臓手術を始めたころから運転手をしていた。彼は時間に正確であった。公用車が必要なときはいつも決まって、朝6時40分、官舎の玄関に紺色のトヨタが静かに停まっていた。そして循環器病センターまでの約50分、私たちは取り留めのない話をした。
私が借りていた官舎は敷地が広かった。回りは全てマサキの垣根で、広い庭の一部は足も踏み込めないような藪であった。官舎に住み始めて直ぐにマサキの垣根にアメリカシロヒトリが大発生した。葉っぱという葉っぱに青虫がぶら下がり、夜になるとパリパリと虫が葉を食べる音が聞こえてくるかのようであった。マサキの垣根はぼろぼろになり、やがて夕方になると、家の周りを無数の白い蛾が舞った。
私にはその庭を管理できなかった。知り合いの建築業者に庭木の剪定や草刈をお願いした。しかしこの作業を何度も業者に頼むわけにいかなかった。そこで岡部さんに相談したところ、金属の歯が回転する2サイクルガソリンエンジンの草刈器があること、垣根はバリカン型のトリマーが便利で、それらはホームセンターで売っていると教えてくれた。
早速私は草刈器とバリカン型のトリマー、それに金属製の足台を近くのホームセンターで買った。岡部さんに使い方を教わりながら、庭の手入れを始めた。バリカントリマーは切れ味が鋭く、気を付けてやれば私一人でも半日で垣根全部を刈ることができた。
2サイクルガソリンエンジンの草刈器は、長い鉄の柄の先に回転する大きな刃が付いていて、バリカントリマー以上に扱いが難しく、危険であった。初めはなかなかエンジンがかからなかった。硬い茎や垣根の竹に刃が当たって跳ね返されたり、小石をはね飛ばして、脛に怪我をしたりした。しかし何度もやっているうちに、エンジンをかけるコツや草を上手に刈る技術も少しずつ身についてきた。岡部さんのおかげで私は、やがてガーデニングのエキスパートを自認するほどになった。
こうして私が県の官舎に住んでいた9年間に、毎年夏場はバリカントリマーやエンジン草刈器で何度も庭の手入れをした。そのおかげで、この古めかしい官舎の庭もだんだん趣きがでてくるようになった。春や秋には岡部さんを始め、仲間を呼んでガーデニングを手伝ってもらいがてら、きれいになった庭でバーベキューをするようになった。
山口純男さんとは、彼が千葉県研修センターの課長をしていたときに初めてお会いした。痩躯でシャープ、一見して能吏であることが分かった。私が研修センターに行ったのは、県立病院の中堅医師に講話をするためであった。話の内容は忘れたが、余談で次のように言ったことは覚えている。「中堅医師は病院にとってもっとも大事な働き手である。その医師が貴重な時間を割いて、ここに大勢集まっている。病院で診療をしていれば、患者さんは喜ぶし、病院の収入も増える。そもそも私の話しなどは皆さんの役に立たない。こうした講習会は無駄だと思う。」山口課長は部屋の片隅で私の話をじっと聞いていた。そして講話の後私に、良く分かったといった。それからしばらくして、県研修センターでの中堅医師への講話は中止になった。
山口さんは2001年4月、事務局長として千葉県循環器病センターに着任した。何でも山口さんご自身が強く希望したのだそうである。2年間の在任期間中、山口事務局長は抜群の行動力と幅広い人脈を駆使して、センターの基礎固めに多大の貢献をした。赴任早々、彼は、表示がなかった建物の壁面と屋上に、「千葉県循環器病センター」という大きな看板を取り付けた。そして5条からなるセンターの理念を作り、それを院内の目立つところに掲示した。その第一条には「良質で模範的な医療の推進」が掲げられていた。
2年の間に山口事務局長は、センターが直面していた10以上の課題を次々に解決した。中でも私が驚いたのは、ガンマナイフの線源交換とバージョンアップの件であった。当時、ガンマナイフは線源交換とバージョンアップの時期に差し掛かっていた。しかしその許可が県からなかなか下りなかった。新しいコバルト線源はスウェーデンから船で1年かけて運んでくるが、その出港期限が迫っていた。新しいガンマナイフの使用許可を厚生労働省や科学技術庁、原子力安全委員会などから得る必要があった。
山口事務局長はまず、線源交換とバージョンアップの決定を急ぐよう、県庁を強力に説得した。そして船がスェーデンの港を出る直前に許可が下りて、それらを注文することができた。それが終わると彼は直ちに、かつての古巣、厚生労働省に直接出向いて設置の認可を得てきた。彼は後で私にいった。「実は先にいくつかの病院から放射線器機の使用許可願いが出ていたけど、何とかわれわれの方を先に認可してくれた。」
その後、科学技術庁や原子力安全委員会などにも直談判しに行った。さすがにこちらは簡単にはいかなかった。文部科学省などが管轄するこれらの役所では、認可を早めることは至難と思われた。おそらく彼が様々な人脈を介して交渉した結果だと思われるが、しばらくしてどちらも認可が下りた。こうしてガンマナイフの線源交換とバージョンアップは、ぎりぎりのところで間に合った。
1997年4月から10年間、市原市の県立鶴舞病院および千葉県循環器センターで、新病院立ち上げの手伝いをした。榊原仟先生の教えに従って、センターの職員とともに理想的な病院とは何かを考え、その実現に努力した。
センターが開院したときに私が提示した基本的な考え方は、「良質で模範的な医療を提供する」であった。良質な医療の第一歩は良いコミュニケーションからと考え、職員に「明るい挨拶」をしようと呼びかけた。そして私自身、毎朝7時30分に出勤して病棟を見回り、誰彼となく大声で「おはよう」と呼びかけた。模範的な医療を提供するには、まず医療がサービス業であることを職員に納得してもらう必要があった。そのために、センター開院後3ヶ月間、私は毎朝玄関に立って患者さん一人ひとりを自分で案内した。それは榊原先生の教えを見える形で職員に伝えたかったからである。
さらに院内の意思疎通をよくし、決定のプロセスを透明にして、職場を働き易くするため様々なことを行った。新たに医療効率や物品管理、機器の購入、保険対策などの委員会を立ち上げ、院内誌を発行し、図書館の整備や治験の推進も行なった。こうした努力が実を結び、次第に職員間の意見交換がスムーズになり、院内の雰囲気が良くなった。それにつれて来院する患者さんの数も増加し、ガンマナイフが全国有数の実績を上げるようになり、成人先天性心疾患診療部や脳卒中診療部、それにヘリポートの設置も実現した。
理想の循環器病センターは築けたのか。確かに病院の人たちや鶴舞町の方々とは、気持ちが通うようになった。私なりに病院の新しい方向を示し、職員はそれを理解し、実践してくれている。「患者さんには希望を、職員には夢を」の合言葉も違和感なく受け入れられるようになった。そういう意味では築けたのかもしれない。
しかし公務員規則に縛られ、全て予算の範囲でしか動けない県庁の人たちが病院の管理をしている限り、出先機関の一病院長がたかだか10年程度、経営について提言したからといって、県立病院の体質が変わるものではない。定年退職する前に近藤病院局長から、もう1年間、循環器病センター長を続けないかという話があった。私はそれをお断りした。循環器病センターでやるべきことはやった。任期を1年延長したからといって、センターの経営が劇的に改善するわけでもない、ましてや県庁の人たちの考え方が変わるものでないと思ったからである。
2007年3月末、千葉県循環器病センターは私に素敵な機会を与えてくれた。センターの多目的ホールで私のお別れ講演会を計画してくれたのである。講演の題は「研究は私に何をもたらしたか」であった。東京女子医大時代の三人の恩師、榊原仟先生と今野草二先生、それに高尾篤良先生から学んだことを話すことで、研究する楽しさを少しでも職員に伝えたかったからである。
講演会のあと斉藤医療局長から、千葉港にあるホテルで私の退職祝賀会を行うという話を聞いた。私は儀式ばった祝賀会は嫌だから、気の合う仲間同士で楽しくやる宴会にしたいといった。祝賀会の日、私と妻は千葉港のホテルへ電車で出かけた。二人とも会場中央の金屏風の前に座らされた。こうしたことは、結婚式以来40年ぶりのことであった。会は斉藤医療局長の司会で始まり、挨拶はごく簡単にして、乾杯の後予想通り、わいわいがやがやの宴会になった。会場には、この10年間鶴舞でお世話になった250人を越える人たちが顔を揃えていた。
千葉県循環器病センターのセンター長室は2階の北東の角にある。北の窓際3分の1はセンターが開院した時、中村初代センター長から私が借り受けた仕事場であり、そこだけ低いパーティションで仕切ってあった。中には机とパソコンが2台、本箱などが置いてあった。大きな窓からは一面にクヌギの林が見え、その先は深い森が広がっていた。真冬以外は大抵、鶯の鳴き声が聞こえた。静かで、すがすがしい空間であった。
残りの3分の2は、中村センター長が以前使っていたスペースで、東の窓際に大きなセンター長机と木製の立派なロッカーが置いてあり、その前には応接セットがあった。センター長に就任しても私は、センター長椅子に座って仕事をすることはなかった。パーティションで区切られた狭い北側の窓際に座っていた。だからセンター長の机はいつも空いていた。
ただし応接セットは多いに利用した。そこで毎朝病院のスタッフと会議を開いた。また私がいるときは常に、センター長室の入り口の扉を開けておいた。だからいつでも誰でも自由に入ってきた。そして応接セットに座って話をした。 入り口を入ったすぐ左側の壁には、木製の本棚があった。そこには私の蔵書やセンターでの仕事の資料がぎっしり詰っていた。この本棚とパーティションで囲まれた窓際が、この10年間私が戦いの策を練った、いわば戦略室であった。棚や机の中の荷物を10個ほどのダンボール箱に詰めて、東京に運んだ。全ての荷物がなくなったセンター長室は実に広々としていた。
2007年3月29日、私はこの部屋を次のセンター長である小野純一先生に明け渡した。申し送りはごく簡単で、これから10年間、小野先生は自分の思い通りにこの病院の舵取りをしていけばよい、ただそれだけであった。 その日の夕方、私は、土間事務局長、礒辺看護局長、斉藤医療局長、それに数人の事務職員に別れを告げて、千葉県循環器病センターを後にした。